映像で見ていたころはそんなこと少しも思わなかったけれど、生で舞台を見る時はどうしてもそれは「好き」があってこそのものであるように感じる。舞台を舞台作品という枠で全体で楽しむのであれば、ストーリーとして重要なところをカメラで押さえてくれる映像の方がもしかしたら効率がいいのかもと思うことさえあり、だからこそ、「自分がそこにいる」ということはとてつもなく観劇に関係するように思えてならない。何を目で追うかも、どの視点でいるかも全て自分に任されているとき、私は劇場の外で、膨大な人とものがある世界の中で「私」としてそれらに触れ続けるときの感覚を思い出す。私は、現実の中に生きる時、現実の全てを見ることはできていない、見たいところを見て、時に何かに肩入れをしたりして主観的に捉えながらそれを「世界」なんだと思っている。もしかしたら観劇でも同じことをしているだけなのかもしれないのです。

 劇場の中で他の現実を遮断して舞台を見るとき、その舞台こそが、私が見る「世界の全て」です。「世界」が全て舞台の「世界」に切り替わるからこそ生の観劇は面白いんだ。物語の筋を追う映像よりももっと広大で、草原からはじまるRPGみたいに自由。そこをただ広いなぁと言うためだけに駆け回るのは実は何も見えていないことと同じなのだと思います。全体を知ろうと歩き回ることもすこしも「知る」ではないのだと思うのです。たった一箇所を本気で見つめるときの方がずっと本当の意味で「世界」として舞台と関わっているように感じる。それは現実の世界の関わり方と同じ。何もかもを広く知っていることより、深く一つを愛するときに、世界と私の関わりが生まれていると感じる。見えない場所が増えることはむしろ、その世界で生きているリアリティなのかもしれません。