小学生の頃、わたしには情熱的に大好きと叫びたくなるようなものがまだひとつもなかった、友達が好きなものについて話すのを大人みたいだなぁと思って聞いていた。好きなものがよくわからなくて、だから私は自分のこともよくわからず、世界のこともよく見えない空洞として生きているような気がして、少し不安だった。自分の輪郭と世界の輪郭を知らないような感覚。どうやってここに立っているのかはっきりとわかっていないまま漂っているようだった。「好きなもの」とは世界と私の接点であって、それが生まれたとき、やっとここまでが「私」で、ここからが「世界」だと知ることができるように思います。私から見た「世界」は、私という存在がくっきり見えなくてはわからなくて、そうしてその「私」を通じた世界の見方は「好き」によって作られている。好きは「偏り」ではなくて、むしろピントが合うことだと思うのです。舞台にオペラグラスを向けるのも多分そういうことなのだ。私は一箇所だけをじっと見て、そうでないと見えてこないものを見て、やっと、舞台という世界に自分の肌で触れることができている。

 運良く座れた少し前の席で、肉眼でもいいじゃないかという距離なのについオペラグラスをあげてしまい、それからなんだかすごく恥ずかしい気持ちになってしまう。けれどオペラに反射した光を見つけたのか、舞台の人がそのレンズに肯定的な反応をしてくれることがたまにあり、そういうときに私はやっぱりとてもホッとする。自分の「好き」の気まずさを、そこで解消してもらおうなんてなんだか違うのではという気もするけれど、それでもやっぱり見るって一方通行的すぎて、不安になるのだ。その不安を簡単になくしてくれる舞台の人はいつだって「好き」で世界を見ることを前のめりに許してくれていて、本当に優しいなぁ。そうやって許されて、もしかしたら現実よりずっと「世界」にピントを合わせる余裕をもらっているのかもしれません。

 好き、だけで世界を見るとき、世界は美しくて、そしてその美しさに気づけるのは、私がここに生まれて生きてきたからだということも同時にはっきりとわかるとき、私の「好き」が、私のために花開くのを感じます。いつもは、「好き」って思うことは一方通行的でエゴみたいなものだと思いながら、迷惑にならないよう失礼にならないよう、罪悪感と共に生きているけれど、「私の勝手で好きなのだ(ごめんなさい)」なんて言ってしまわなくてもいいのではないかとそんなときは思う。私は私のためにあなたが好きだ、と思うのはなんの戒めでもなく、本当にそう、そうやって私は私を幸福にできているのだ、事実として。世界を好きになれるとき、そこに生まれて出会った「私」を鏡に映る像のように無意識に、心の底から愛している。この瞬間には誇れるものしかないって、そのとき信じることができるのです。