好きなものができると、人生は豊かになる、幸福になると言われるとき、私は少しだけ苦しくなる。好きであればあるほど、私はたまにとても悲しくなり、つらくなり、そしてそのたびに私はその「好き」が、自分のためだけにある気がして、誰かのための気持ちとして完成していない気がして、いたたまれなくなる。好きな存在にとって少しでも、光としてある気持ちであってほしいのに、私は、どうして悲しくなるんだろう?
 私は、宝塚が好きです。舞台に立つ人たちが好き。その好きという気持ちが、彼女たちにとって応援として届けばいいなと思っている。そして、同時に無数のスパンコールが見せてくれる夢の中にでも、悲しみもある、不安もある、そのことを最近はおかしいと思わなくなりました。未来に向かっていく人の、未来の不確かさをその人と共に見つめたいって思っている。だから、そこにある不安は、痛みは、未来を見ることだって今は思います。好きだからこそある痛みを、好きの未熟さじゃなくて鮮やかさとして書いてみたい。これはそんな連載です。

 オペラグラスで舞台を見るのが好きです。全体を見たいとは本当にあまり思わなくて、例えば本を読んでいるとき音が聞こえなくなるように、一瞬がスローモーションで見える瞬間があるように、舞台は特別に思えば思うほど一箇所しか見えなくなる。それはたぶんオペラグラスを使わなくったってそうで、好きになるとはそういうことで、だからこそオペラでその幻を「本当」にしている、オペラを使うことで自らに正直になる。どんどん見えないものが増えていくのが舞台を愛するってことのような気がするのです。そしてできる限りいろんな場所を見たいから何回か繰り返して通ってやっと全体像を頭の中でパッチワーク的に作ることもある。これが正しいのかはわからない、わからないというか間違ってると薄々思っていて、その気まずさはあるので、いつもオペラで見てるときの「舞台の人にバレたくないなぁ」の気持ちは強烈にあり、しかし舞台の人はオペラグラスを見つけてくるのですよね……あれはすごいなぁ。そしていつも恥ずかしくなってしまう。

(イラスト◎北澤平祐)

 舞台を見ているとその世界にのめり込んで自分という存在を忘れる、感情が高まりすぎて真っ白になる、というのはもちろんあるけれどでも同時にむしろ逆では?と思うこともある。あの人のあのタイミングの表情を絶対にオペラで見なくては私はここにきた意味がないのでは?つまり生まれた意味がないのでは?という焦りで、でも、こんなところでオペラを見るってどうなんだ!?作っている人たちは舞台全体を見てほしいのではないか……と自分の中で自分と、誰のため何のために争うのかもわからない争いを始めてしまうのだった。私は自分にどんなファンでいてほしいと思っているのだろう、作品全体を好きになって隈なくいろんなところを見て、穏やかにファンをやる人になってほしいのだろうか。たぶん舞台に立っている人はオペラを失礼とは思わなくて、そう思っているとしたらそれは私自身なのだ。全然自分の理想の「好き」ができていない、もっともっと強烈な「好き」になってしまっている、ということを自分の手がオペラグラスをおろそうとしないときに思い知る。好きになること自体が自分の勝手であって、自分の中で完結している思いのはずなのに、「一方的に見る」というかなり能動的な行動に出てしまっているからそれが怖いのかもしれないなぁ。自分の中でこれくらいなら許されるだろうかと思う「好き」はもう少しほどほどのもので、そうではなくなっているからこそ堂々とはできないのかもしれない。別に許されるも許されないも私が推し測れるものではないのだけれど……事実として当人に許される限界を知りたいのではなくて、見るという行為は普通は一方通行的にするものじゃないから、それが当たり前にできる空間にどうしても慣れないというだけだ。人をじっと見るって、どうしても抵抗がある。それに、「好きになる場所」ではなく「舞台を見る場所」ではないのか?とどこかで思ってしまっていて、そこを自分の中で曖昧なままにしてしまっているから抵抗が生まれるのかもしれません。