義時最期の妻・伊賀の方による毒殺説

1224年(元仁元年)6月12日、北条義時は突如病を発し、翌日「念仏を唱えながら」往生を遂げた、と『吾妻鏡』は記しています。でも、この亡くなり方だと、前述1に当てはまりませんので、他のかたちになるでしょう。

『保暦間記』という歴史書は「近習の小侍に刺し殺された」という異説を紹介していますが、あまりに突飛で、物語が膨らまないので、これでもないんじゃないでしょうか。

ぼくが予想するのは、義時の最期の妻である伊賀の方による毒殺です。

過去の記事で「日本史において毒殺はポピュラーではない」という話をいたしました。ですから、これはたぶん史実ではない。でもドラマですから、そこはオッケーなわけです。

承久の乱の首謀者の一人に、二位法印尊長という僧侶がいました。彼は乱のあと姿をくらましていましたが、3年後に捕えられて、六波羅探題に連行されました。

すると尊長は「とっとと首を切れ。さもなくば、義時の妻が義時に飲ませた薬で、早く俺を殺せ」と六波羅の役人に毒づいた、と藤原定家の『明月記』に記載されています。三谷さんはこの話を使うんじゃないかな。