自分の親を《毒親》だと認められていない
そんなアルテイシアさんと話していると、「なんでこんなに生きづらいんだろう」「なんでこんなに苦しいんだろう」という思いはあって当たり前だし、そしてそれは自分が弱いからではなく、背負いきれない程の困難を背負ってしまったせいなのだ、と気づくことができる。
実を言うと、私はまだ自分の親(というか父親)を《毒親》だと、まだ認められていない。
どこからどう見ても毒親なのだけれど、やっぱり自分の親をそう呼ぶのには抵抗があるというか、割り切れなさがある。
でも、最近ようやく、今は、親のことを背負える段階じゃない。自分の人生に集中しよう、と思えるようになった。
父親からの電話には出ない。大量に送られてくる手紙も開封しない。
そうやって一時的に絶縁中することを決めた。
それを話すとアルテイシアさんは「よかったぁ」と安堵したように、喜んでくれた。
アルテイシアさんの話で「ほんとそれ!!」と思ったのは、「親の事情や痛み」と、「自分が受けた被害」は分けて考える、ということ。
「自分は被害を受けたのだ」とまず自覚することは、自分自身を回復させていくため、ケアするためのファーストステップである。
そこをすっ飛ばして、「でも親もかわいそうだし」と親の事情を慮ったり、「親孝行しないと」と親のケアに回ったりすることは、瀕死の負傷兵が怪我人を介抱するようなもの。共倒れになるし、お互いにとってプラスにならない。