「理解ある彼くん」は必要なのか問題

観客から笑いが漏れたのが、毒親などの困難の克服に、「理解ある彼くん」は必要なのか問題。
私はかねてから世間の「恋愛、結婚してなんぼ」という圧力に悩み続けている。

フィクションの世界では、貧困なり毒親なり、壮絶な生い立ちの主人公は、困難を克服したり、抜け出したりするなどハッピーエンドにたどりつく過程で、理解ある彼くんに出会い、支えられるのだ。やはり自分が貧困や毒親サバイバーなので、困難を背負った主人公に感情移入してしまうのだけど、思い返せばそういった作品では必ずと言っていいほどなんか理解ある彼くんが出てくるし、それが重要な要素になっている。あれなんなの?

もちろん、寄り添ってくれたり傷を癒してくれるような人との出会いがあるならそれは素敵なことだろう。
でも、それって恋愛じゃなきゃだめなんだろうか。

恋愛って確かに人を幸せにするし、悲劇のヒロインをヒーローが救い出してくれるみたいなエモストーリーの最高の調味料にもなるだろうけれど、過度な依存にもなりかねない。それに、相手が自分のバックグラウンドを全部受け入れてくれるとは限らない。うまくいかなかったら立ち直れないほどの傷になりうる。つまりめっっっちゃリスキー!!!

学生時代を過ごした大阪。阪急電車が懐かしい