父は最高の憎まれ役であり、最高の味方でもある

ラン・ラン さんの半生を描いた自伝『奇跡のピアニスト』は、11ヵ国語に翻訳され世界的なベストセラーとなりました。音楽家の夢を絶たれた両親の一人っ子として育ち、決して恵まれたとはいえない経済状況の中、ピアノに励んだ幼少期の ラン・ラン さん。ひたすら練習に励む父子の生活を支えたのは、電話交換手をする母の稼ぎでした。 ラン・ランさんの波瀾万丈な物語は、ハリウッドでの映画化が決定しています。


両親は貧しいながらも音楽を愛する人たちだったので、私は2歳になる前にピアノを買い与えてもらいました。私はピアノの梱包がとかれた瞬間から、その日は夜までピアノを弾いていたそうです。父はその頃、二胡で伴奏してくれました。でも私がピアノを愛し、才能を発揮したことから、父は非情なまでの野心を持って、私をピアノでナンバーワンにすることにのめり込んでいったのです。

私は5歳で初めてコンクールに出場、それからはあらゆるコンクールで勝利することを目指していきます。父はいつもその傍らにいました。その後、アメリカのカーティス音楽学院に奨学生として招かれ、15歳の時に渡米しました。

アメリカではホロヴィッツの弟子でもあるゲイリー ・グラフマンに師事します。彼から私は、コンクールを制覇していくことよりも大切なこと、音楽という芸術を人の心に届けるにはどうしたらいいかを教わりました。真の音楽家としての使命を心に宿すことができたのです。コンクールに出ないことに初めは反発していた父も、徐々にそれを受け入れてくれるようになりました。

私の物語を映画化するにあたって、最初はロン・ハワード監督(『ビューティフル・マインド』『ダ・ヴィンチ・コード』ほか作品多数)がメガホンをとる予定でした。ところが、制作発表近くに、アメリカ人の監督がアジアをまともに解釈できていないという別の映画に対するバッシングがありました。昨今は欧米で、文化の多様性をそのまま受けとめる土壌が整いつつあります。Netflixでの韓国ドラマのヒットがいい例ですね。ハリウッドによるハリウッド解釈の映画だけがウケる時代は終わりました。 ありのままの私たちの物語が、多くの皆さんに愛される映画になることを願ってやみません。

私は15歳で渡米して以来、アメリカで暮らしています。そこでアメリカの父親と中国の父親は随分と違うということを知りました。アメリカの父親は息子が自分とは違う人生を歩むことを尊重し、ある程度本人の好きなようにさせるスタンスですね。それに比べて中国の父親は、息子の人生にとことん口を出し、息子も言うことを聞かなければいけないと思っているように感じます。

私の父は私が甘えると言って母から引き離し、友達からも引き離して、私のことをひたすらピアノの前に座らせました。私もピアノの練習が好きでしたが、母のことが恋しかったし、ピアノ以外のことも楽しみたかった。けれども私の父の夢は、ただ一つ。私をナンバーワンピアニストにすることでした。父はそのことだけに人生を捧げていたのです。

子どもの頃、私は父のことを心底憎らしく感じていましたが、私の欲しいものも父と同じだった。私もナンバーワンのピアニストになりたかったのです。

(撮影◎本社・中島正晶)