個人と公人の関係

そこで参考になるのが、個人と公人の関係です。

徒然草206段には牛が検非違使庁建物の中央部にのそのそと入っていく、という話が出てきます。

ここでの検非違使庁とは、検非違使の長官である徳大寺公孝の私邸のこと。同じように、将軍の御所とは、源頼朝の私邸のことを指します。

今でいうような「財務省」といった公的な建造物はとくには無かったので、財務大臣の私邸が財務省を兼ね、そこに財務省の役人たちが通ってくる、というイメージです。 同じように、将軍の御所とは、源頼朝の私邸のことですね。

ということは、かつて後白河上皇が源義経にむけて「源頼朝を討て」との命令を下しましたが、このとき義経は「頼朝の私邸に伺候する武士=御家人をみな討伐しなくてはならない」、つまりは鎌倉幕府を倒さねばならないということを意味していたのです。

ただし、武士たちは誰も義経に味方しなかったために、この命令は絵空事に終わったわけですが。

絵空事にならなかった事例として、後醍醐天皇による鎌倉幕府討伐があります。天皇による直接の命令書は残っていませんが、天皇の意を受けた大塔宮護良親王の命令書を見ることができます。

酒に溺れて政治を顧みず、幕府滅亡の原因を作ったとされる北条高時。酔って踊っている様を侍女が覗いたところ異形の天狗と舞っていた、というエピソードが描かれている(『芳年武者无類 相模守北条高時』作:大蘇芳年/国立国会図書館デジタルコレクション

そこには「(鎌倉幕府の第14代執権)北条高時を討て」と書いてある。それを受け取った武士たちは「鎌倉幕府を倒せ、ということだな」と理解し、鎌倉に攻め入り、京都では六波羅、九州では鎮西探題など、幕府の出先機関を壊滅させていったのです。