「怒る女」と思われるのは、致し方ないことなのかも
17歳でイタリアに移り住むまで、私は今ほど多弁ではなく、むしろ寡黙なくらいだった。しかし留学生活が始まり、毎日矢継ぎ早に勃発するあらゆる問題と対峙しているうちに、イタリアでは激しい自己主張と説得力を持った言葉を駆使できなければ、社会で生き抜いていけないということを思い知らされた。
特に貧乏学生をしていた時代はひどかった。家賃を過払いしていたことが発覚して大家と一悶着、貸したお金を返してくれない友人と言い争い、郵便局では財布をすられそうになって大騒ぎ、質に入れていたラジカセを流してしまった彼氏と大喧嘩、子供の出産直前に私の産気を信じようとしない産婆と一騒動。
こうしたハイカロリーな出来事の波を日々乗り越えているうちに、いつの間にか何を喋るときであろうと今のような口調になってしまったのだと思う。
「沈黙は金なり」ということわざがあるが、これが通用する国とそうでない国があるのは確かだ。少なくともイタリアではあまり効果を発揮しないだろう。
そういえば通信販売のサイトで愚痴や怒りをそのなかに叫ぶことでストレスを解消する壺というのが売られているが、洒落とはいえ、使用している人は少なくないらしく、結構な数の購入者が高評価をしている。
このような商品が発案される日本において私が「怒る女」と思われてしまうのは、致し方ないことなのかもしれない。
『歩きながら考える』(著:ヤマザキマリ/中公新書ラクレ)
パンデミック下、日本に長期滞在することになった「旅する漫画家」ヤマザキマリ。思いがけなく移動の自由を奪われた日々の中で思索を重ね、様々な気づきや発見があった。「日本らしさ」とは何か? 倫理の異なる集団同士の争いを回避するためには? そして私たちは、この先行き不透明な世界をどう生きていけば良いのか? 自分の頭で考えるための知恵とユーモアがつまった1冊。たちどまったままではいられない。新たな歩みを始めよう!