老いを受け入れる諦念の境地

高齢者の交通事故のニュースを見る度に、私は父に運転をやめるように頼んでいた。「自分は大丈夫」と言う父と、喧嘩ばかりしてきた数年間、気が休まる日はなかった。

携帯電話に知らない番号の着信があると、父が交通事故を起こしたのではないかと、気持ちがザワザワしたものだ。一昨年末の自損事故により、父は自分の意思とは別に、運転をやめることとなり、私は難題がひとつ解決したように思っていた。

ところが車を処分してしまっても、父は運転免許証を所持していたいと、頑なに主張した。返納するように勧める家族に黙って、免許更新の高齢者講習に行ってしまうほどの執着心の強さは、私には理解しがたいものだった。

しかし、昨夏、車の乗り降りの際に足がふらつくなど、身体の衰えをようやく自覚したらしい。父は期日がきても更新せずに、「期限切れ」の形で、運転免許証が無効になる選択をした。

生きた証であるかのように、父の財布のカード入れには、今も期限切れの免許証が入っている。父はマイナンバーカードも取得しているのだが、60年以上、身分証明書として持っていた免許証に取って代わるものではないようだ。老いを受け入れる諦念の境地に至る心境は、身につまされる年齢にならなければわからない。

私が少しずつ父の心情を思いやれるようになったのは、66歳になって衰えを感じているからだ。

例えば、セミダブルの父のベッドのシーツを交換する際に、マットが重くて持ち上げるのが辛い。ペットボトルの蓋を開けるのに苦労する。冷蔵庫を開けても、何を取り出そうとしているかを思い出せない。自分自身の加齢による衰えが不安でしょうがない。

父は妻を49歳で、一人息子を46歳で亡くした。その時に父がどれほど悲しみ、喪失感を持って生きてきたかを、私なりに知っている。

父より先に倒れることのないように、私は自分の健康に気を付けて、しばらく続きそうな老々介護に取り組んでいかなければならないと思っている。

(つづく)

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