当たり前の日常が、いちばん大切
人生の節目はいくつかありますが、私の場合、50歳を機に、「自分の根っこになるような活動がしたい」と思い、「朗読座」を旗揚げしました。朗読に音楽や映像といったアートを組み合わせたパフォーマンスを、日本各地をまわってお見せしているのですが、公演で初めての土地に行けるのが本当に楽しみで。いまや私の大切なライフワークです。
日頃お子さんの世話やご家族の介護などで頑張っている方が、「今日は紺野美沙子の朗読を聞きに行くから」と時間をやりくりして来てくださる。なかには開場前から並んでくださる方もいます。主婦の方にも家事の合間に来て良かったと喜んでもらいたい。楽しみにしてくれている皆さんの期待に応えたい――。そんな思いで活動を続けています。
コロナ禍もあっていまの時代、大変な思いをなさっている方もいらっしゃる。私は気持ちが落ち込んだときは、新美南吉さんの「でんでんむしの かなしみ」という物語の一節を思い出すのです。
「かなしみは だれでも もっているのだ。わたしばかりでは ないのだ。わたしは わたしの かなしみを こらえて いかなきゃ ならない」
というものですが、私はこの文章が大好き。読むたびに不思議と元気が出るのです。老いを感じてガックリきたときも、「老いは誰にでもやってくるのだ。私ばかりではないのだ」と自分に言い聞かせながら、前向きに立ち上がっています。
茨木のり子さんの詩も、私に力を与えてくれました。茨木さんは「倚りかからず」という詩のなかで、「倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ」とお書きになっているのですが、これも私への言葉だなと。何ものにもよりかからず、姿勢もなるべくよくして、自分の足でしっかりと立つ。そんなふうに生きていけたら理想的ですよね。
毎朝元気に目が覚めて、コーヒーを淹れて、おいしく朝ごはんを食べて、仕事をして……。そういう当たり前の日常が、実は何より大切なのかもしれません。このさき年齢を重ねても、できるだけ自立して、機嫌よく暮らしていけたら幸せです。