腎盂炎からのフルコース

「ふん、厄介な!」

子どもの頃の私は、鏡にうつる貧弱な上半身の裸体を見つめたものです。

思えば、小学校3年の夏休みは重症の腎盂炎で1ヵ月以上入院。中学(最後の高等女学校に併設)は2日通っただけで、高熱を発し、初期の肺結核と診断され、翌年の9月まで登校を許されませんでした。以後、高校の体育は診断書を提出して、「見学」している時期が長く続きました。

ほかの人より一歩でも先に出たい勝ち気な私が、もしかしたら2年も学齢を遅れるなんて! 泣いて騒いで、当時の結核の神様のようだった主治医、岡治道先生にどやしつけられました。

まだ外科手術や化学療法はなく、人工気胸という、肋骨の間から清潔な空気を送りこむのが唯一の治療法でしたが、名医と運のおかげで、大学に入学する頃には、深夜までサークル活動(主として新聞部)に身を投じ、健康そのものでした。

1年半の休学も、稔りはありました。私が小学校から集団疎開している間に、兄が急性結核性脳膜炎で亡くなり、私は死に目にあっていません。兄は頭も容姿も私よりはるかに上出来でしたから、父に溺愛され、私はもっぱら引き立て役。

文学少年だった兄は、電車賃をもらうとそのぶん足で歩いて、浮いたお金で本を買っていました。そして小型の本棚2杯分、主として文学書を残してくれました。

お転婆な私が1年半にわたる結核の療養を全うできたのは、ひとえにこの兄の遺品である古本と猫のおかげです。

いま振り返っても高校時代までに読むべき本はほとんどそろっていたと思います。いつもざわざわと仲間の中にいるのが好きな私に、もし兄の遺品の蔵書がなかったら、私の読書量では現在に至る仕事はつとまらなかった、と思います。

けんかばかりしていた兄ですが、90歳にしてしみじみ「命を分けてくれた」という感謝の念を抱いています。