1968年のピンキーとキラーズ。昭和らしさを感じる、モノクロの素敵な1枚(今陽子さんのフェイスブックより)

過密スケジュールがあたりまえだった頃

15歳で歌手デビューして、その翌年ピンキーとキラーズのボーカルとして歌った「恋の季節」が大ヒット。日本全国で《ピンキラ旋風》が巻き起こり、脱退までの4年間は殺人的なスケジュールでした。1日に25本のテレビ収録をしたことも。当時は歌番組がたくさんあり、撮りだめをしておくのです。

1日の睡眠時間は1、2時間とれればいいほう。専属のお医者さんと看護師さんがついていて、移動中に点滴です。39度の熱があってもコンサート会場へ。2時間歌いきったあと、救急車で運ばれたこともありました。それで1日休んでまたツアーへ。

私の10代は、身も心も疲れ果てていました。歌手の多くが罹患する声帯ポリープができたときは切除したくらいで、とくに病気をすることなく乗り切れた。若さはもちろんですが、持ち前の丈夫さもあったのでしょう。

売れたのは嬉しいしありがたかったのですが、ずっと 《「恋の季節」のピンキー》のイメージを求められる。今ではピンキラ時代の歌は宝物と思っていますが、ジャズやポップスを歌いたくてこの世界に入った私は、やりたい仕事がなかなかできず苦しんでもいたのです。

そこで、23歳を目前にしたとき、結婚に逃げてみました(笑)。結局、《奥さん》というものになりきれず、3年8ヵ月しかもちませんでしたが。

28歳でニューヨーク留学を決めたのは、自分を立て直し、再スタートしたいという思いがあったから。あちらでは歌やダンスなど、基礎を一から学び直しました。アパート探しに始まり、何もかもを一人でやらなければいけない生活。精神的にタフになりましたね。

アーティストとしての技術の向上はもちろん、身も心も鍛えてくれた、それがニューヨークでの2年間でした。

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