関の東側「関東」=未開拓の地を意味していた

この関は三つありました。すなわち、愛発関(あらちのせき)、不破関、鈴鹿関です。それぞれ現在の福井県、岐阜県、三重県にあたる場所です。

『「将軍」の日本史 』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)

この三つの関を縦に結ぶラインが日本列島を東西半分に分けるラインであり、奈良や京都を中心とした西国の政権にとっては、関の西側こそが「こちら側」です。

関の東側は「関東」と呼ばれ、いわば未開拓の地を意味していました。

ちなみにこの三つの関のうち、現在の岐阜県にある不破関は、天智天皇の後継を巡って勃発した壬申の乱や、天下分け目の合戦である関ヶ原の戦いが行われた場所でもあり、日本列島における地政学的な要所だったと言えます。

三つの関の東側=関東が未開の地とされたわけですから、さらに都からはるか遠くにある東北地方は、もっと情報の少ない土地だったことが推して知れます。こうした未開の地にいる蝦夷を征討するために、坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命されたわけです。