鎌倉で武士の政権を発足させた頼朝だが、その後も2回しか京都に行かなかった(『源頼朝公上洛之図』広重/伊勢兼、国立国会図書館デジタルコレクション
松本潤さん演じる徳川家康が話題のNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。天下を統一し、江戸幕府のトップとして武士を率いる「将軍」となるという家康の歩みが描かれていますが、「将軍とは言え、強力なリーダーシップを発揮した大物ばかりではない」と話すのが歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生です。たとえば「征夷大将軍」に任命されたことで有名な源頼朝ですが、本郷先生いわく、その役職自体には中身がまったく無かったそうで――。

最初の征夷大将軍・坂上田村麻呂

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』内で、源頼朝が任じられていた「征夷大将軍」。

征夷大将軍といえば、平安時代の坂上田村麻呂が蝦夷征討のために任じられたということを思い起こす読者も多いのではないでしょうか。

坂上田村麻呂は延暦一〇(七九一)年から蝦夷征討に参加し、延暦一六(七九七)年に桓武天皇から征夷大将軍に任命され、兵を率いて遠征したとされます。

ここで補足しておきたいのは、蝦夷、つまり当時の東国がどんな位置づけにあったか、ということです。

実は日本列島の東西は、同じように発展していったわけではありません。大陸との交流によって、進んだ文化や制度は日本列島の西側から流入し、西国を中心に発展してきました。

天智二(六六三)年に勃発した白村江の戦いで倭・百済軍が唐・新羅軍に敗北するまでは、朝鮮半島に利権があり、軍事や政治・貿易などの意識は朝鮮半島や中国大陸のほうへと向いていたと言えます。

しかし、八世紀以降、東国の反乱に備えて「将軍」を置くようになります。天皇の代替わりなど重要な出来事があった際に朝廷は「固関(こげん)」という行事を行ってきましたが、これは読んで字のごとく、関を固める(封鎖する)ということです。