頼朝は征夷大将軍にこだわらなかった

それでは『三槐荒涼抜書要』によって新たに判明したことは何か。

まずひとつは、源頼朝よりも早く都入りを果たし、平家一門を西国に追い払った木曾義仲が任命されたのは、征夷大将軍ではなく「征東大将軍」だったということ。もうひとつは、頼朝が朝廷に任命を求めたのは征夷大将軍ではなく、ただの「大将軍」だったということです。

このふたつが何を意味しているのか、順を追って説明していきます。

一一九二年の頼朝の征夷大将軍就任の直前に、後白河上皇が亡くなっています。この事実から、「頼朝はずっと征夷大将軍という役職が欲しかったので朝廷に申し出ていたが、後白河上皇がそれを拒み、なかなか就任できないでいた」とかつては考えられていました。

後白河上皇の死後、頼朝の申し出を拒否できる者がいなくなり、やむなく朝廷は征夷大将軍に任命したというわけです。この考え方によるならば、頼朝は征夷大将軍という役職を欲しており、それは鎌倉に幕府を開く権限を得るためだったとされます。

結果、征夷大将軍に任命された時点をもって、鎌倉幕府が始まったとみなされ、鎌倉幕府一一九二年説が採用されてきたのです。

しかし、新たに判明した『三槐荒涼抜書要』の記述によれば、頼朝は征夷大将軍になることを望んでいません。「大将軍」を要求していたことがわかったのです。