結局は「縁起が良いから」という理由で
頼朝の申し出を受けて、朝廷側も前向きに検討しています。そこで提案されたのが「征東大将軍」で、これは朝廷が木曾義仲に与えたものでした。
けれども義仲は頼朝によって討たれていますので、縁起が悪いため却下となりました。この記述によって、義仲が征夷大将軍ではなく、「征東大将軍」に任命されたことが明らかにされたのです。
続いて、畿内の軍事的権限を持つ「惣官(総官)」が検討されました。平清盛亡き後に平家一門を率いた平宗盛が与えられた官職です。
しかし、宗盛は治承・寿永の乱、いわゆる源平の戦いで敗れて斬首となっているので、これも縁起が悪い。「征東大将軍」も「惣官」も縁起が悪いのでダメ、それでは、中国にある「上将軍」はどうか、というようにさまざまな案が検討された挙げ句、歴史を顧みて、坂上田村麻呂が征夷大将軍として見事に東の蝦夷の制圧を成し遂げていることが注目されました。
これは縁起が良いということで、功成り名を遂げた田村麻呂にあやかって、頼朝を征夷大将軍にすることが決まったのです。
つまり、結局は「縁起が良いから」という理由で、頼朝は征夷大将軍になったのです。ということは、やはり、その役職自体には中身はなかったということになります。
私は以前、『三槐荒涼抜書要』が発見される前に、自著『新・中世王権論』のなかで、「乱暴に言えば、頼朝は、また幕府はどんな官職でも良かったのだと考えている」「名称はどうあれ、内実は頼朝が策定していくほかない。要するに頼朝は、今までにない強力な主従関係の指標として、それらしい響きをもつ官職が必要だった」と書いたことがあります。
その際に私が批判の対象として念頭に置いたのは、先に述べたように「征夷大将軍」という役職それ自体の内容・中身を過大に評価する説のことだったのです。この批判は、『三槐荒涼抜書要』によって裏付けられたと言えるでしょう。
※本稿は、『「将軍」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
『「将軍」の日本史 』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)
幕府のトップとして武士を率いる「将軍」。源頼朝や徳川家康のように権威・権力を兼ね備え、強力なリーダーシップを発揮した大物だけではない。この国には、くじ引きで選ばれた将軍、子どもが50人いた「オットセイ将軍」、何もしなかったひ弱な将軍もいたのだ。そもそも将軍は誰が決めるのか、何をするのか。おなじみ本郷教授が、時代ごとに区分けされがちなアカデミズムの壁を乗り越えて日本の権力構造の謎に挑む、オドロキの将軍論。