私は感情が激しいタイプなので、人を好きになれることが本当にそれだけで嬉しく、でも、その「好き」という感情で自分がどんどん愚かになることや、他者に対して残酷になることが耐えられないので、こうした一方的な思い方を知ることができたのは幸運にも程があるのです。そしてだから、一人で完結した形ではあるけどこの「好き」にも熱狂が混ざっているなと察した時、少しだけゾッとする。ひとつずつ、どうして私は同じ作品を何回も見ているのか説明して、まるで熱狂ではないかのように言いくるめることはできるが、でもほんとは熱狂だと自分でもわかっているからそんな言い訳がしたくなるのだ。「推し活もいいけど自分の人生も大切にね!」みたいな話を見かけるたびに、ずきずきしながら、わけのわからんことをいうな!と言い返したくなる。「好き」より「私の人生」な人生なんてないのだ。それは絶対にそうなんだよ……。多くの人は誰かを愛したいし、でもそこに付随する様々な自分の暴力性や、「愛する権利」の問題について苦しむのだ。それが解放されて「好き」という感情をマラカスのように手に持っていくらでも振れるよとなったときに、その幸せな時間はあなたの人生の主題ではないはずだ、と言われても困る。それは困る。言いたいことはわかるけど、でも、本当に「人生の主題」じゃないのかな。そういうことを言う人は、その「好き」が一方通行だから言うんだろうか、相手はあなたを好きじゃないじゃんって言いたいんだろうか。でも一方通行だからこそいくらでも「好き」のマラカスを振れるんだよなぁ、だからこその幸福なんだよ。双方向でない「好き」は主題になり得ないと思っているなら、それはあまりにも寂しい考え方だと言いたくなる。
 人生にはその主題以外もたくさん考えなければならないことがあり、主題を存分に楽しめる場所ができたからと言ってそこだけでは生きていけないよ、とそう言ってほしいと、勝手に願ってしまう。賢く生きろ、効率的に生きろ、と言われたら、もっと私は「うん」って言える。
 私は、「好き」を無欲で純粋なものだと思いたいし、実際そうだと信じている。そういう側面が確かにあり、それは私を助けてくれている。だから、私はそうではない自分の言い訳に「好き」を使いたくはない。「好き」のためだけには生きられない、とわかったときぞっとして、怖くなるけれど。でも、怖くなってしかるべき、だとも思っている。