好きなものができると、人生は豊かになる、幸福になると言われるとき、私は少しだけ苦しくなる。好きであればあるほど、私はたまにとても悲しくなり、つらくなり、そしてそのたびに私はその「好き」が、自分のためだけにある気がして、誰かのための気持ちとして完成していない気がして、いたたまれなくなる。好きな存在にとって少しでも、光としてある気持ちであってほしいのに、私は、どうして悲しくなるんだろう?
 私は、宝塚が好きです。舞台に立つ人たちが好き。その好きという気持ちが、彼女たちにとって応援として届けばいいなと思っている。そして、同時に無数のスパンコールが見せてくれる夢の中にでも、悲しみもある、不安もある、そのことを最近はおかしいと思わなくなりました。未来に向かっていく人の、未来の不確かさをその人と共に見つめたいって思っている。だから、そこにある不安は、痛みは、未来を見ることだって今は思います。好きだからこそある痛みを、好きの未熟さじゃなくて鮮やかさとして書いてみたい。これはそんな連載です。

 手紙を出した直後の観劇はいつも、「あの手紙……今すぐ燃えてくれないかな……」という気持ちになる。自分が書いたことが「間違い」な気がして怖くなるのだ。話のことや役のこと、たくさん勝手に解釈して勝手に思い込んで書いてしまった気がする、大はずれだった気がする……とその人のお芝居を見ながら落ち込んで、いやこれは試験じゃないんだから、見えたものを見えたように書いたらいいんだよと思い直し、でも送っちゃったからぁ!読む人がいるからぁ!と「どうにか燃えて消失しないかな……」と願ってしまうのだった。

(イラスト◎北澤平祐)

 お芝居を見ている時の私は多分かなり複雑な状態にあって、その人自身が好きな気持ちとともに、その人が演じている役に没頭しようとする観劇好きの私と、お話として作品を楽しみたい物語好きの私と、それからその役をどう作り込んでいるかという演者さん自身の思考の蓄積に思いを馳せる私と、この役をこの人がやるんだっていう、配役の意図とかに思いを馳せる私、そういう本当にいろんな気持ちがないまぜになっている。好きになった最初はそれこそ役がすべてで 、役こそが好きで、でもこの役を「生かす」ことができているのはこの人なのだと気付かされ、演者さんのファンになった。ただその後は、その人が演じるからこそその役を見て、その役のことを考えている。お芝居や役として純粋に見れているのかな、とたまに自分でも不安になるし、けれど、そうやってずっと最初からそこに重心を置いて見るからこそ気付くものもたくさんあり、そこでやっぱり好きでよかったなと思うんだ。