見ている時、ああ好きだなぁ~という気持ちよりもっとメラメラと燃える闘志があるんです。好き!生で見れて嬉しい!とかじゃなくて(それもあるんですが)その人が演じている役を10000%受け止めることこそ我が使命!という情熱で燃えてしまいます。もちろんただの思い込みだし、これは自分が物書きだからそう思うとかではなくて、たぶんそういうのは関係なく、ただファンとして「今、私は全力が求められているな」と思うのです。目の前の人たちが情熱を燃やしてそこにいるから、というのもある。そして私は舞台が好きだから。好き、と思えたなら、もっと穏やかな優しい「好きな人が元気でいてくれたらそれでいい……」みたいな気持ちになるのかなぁと思っていたのですが、そういう健康を祈る気持ちはありつつも、自分に対してはよりスパルタになっているのをひしひしと感じます。好きと思うならばその人が作り上げるものは、最大限の責任と覚悟を持って受け取らなければならない!と、誰にも頼まれてないのに勝手に自分を追い詰めている。その人がそこに元気にいてくれるだけでいい、という気持ちもあるはずなのに、観劇中はそういうやわらかなものは消え失せ、私の目がぎらついてないか心配になるぐらいずっと己の集中力を己で煽り、必死で舞台の細部を把握しようとしていた。なんのためにかはわからない。でも、それこそが楽しかったのです。

 だから、「手紙に書いた解釈は間違ってたかも」と数回目の観劇で気づいた時、焦ってしまう。間違ったことを送って申し訳ない!というのもあるにはあるけど、それで相手がどう思うか、は本当はあまり焦りには関係ないのかもしれない。ただ解釈が簡単に揺らいでしまう時、私は、私を許せなくなるというだけだ。舞台の上では、演者さんたちが芸を磨くために使った時間が幾重にも折り重なり、横たわっている。絶対にそこまでの熱さで私は立ち向かえないけど、でもできる限りの全力で客席にいたいと思うのだ。観劇は遊びじゃない。遊びだが、そう思い込むことで、私は自分の「好き」に立ち向かっているのかもしれない。そうじゃないとこの熱量の持って行き方が分からないのだ。好きだから、見ている。でも好きという気持ちを満たすためだけに見るのは退屈で、つまらない気がしてしまう。好きという感情によってさらに作品に深く潜れた方がいい、そうやって「好き」という感情によって人生が変わっていくのを、全てが鮮やかになっていくのを証明したいのかもしれないな。

 好きな人ができてさらに面白くなる舞台じゃなきゃ、生で見る意味も私が誰かを好きになる意味も、ないみたいじゃないかって思っている。舞台は生身だ、私も生身。誰かを好きになれるような柔らかさのまま、最大限の熱量でぶつかってやっと観劇だって私は思えるんだよ。全部勝手。勝手な私のこだわりです。ブログに公演の感想文を書いていて、それをあんな量よくやりますねと言われるけど、あの全ては多分、私にとって炎にくべる薪なんだろうな。