芝居は複数の人が登場して、その人たちの人生の交差点としてお話がある。主役はいても、そこにいる人たちは全員人生を持っており、それは小説でもなんでもそうなんだけど、演じる人がいるというのはその「人生」を本当に持ちうる、ということなのだ。その役についてひたすら考えている人がいて、その人が差し出す一瞬がある。その積み重ねでお話ができているからこそ、ひとつの場面が交差点として立体的になっていくんだろう。広く全てを見たり、見るべき場所としてライトで示されているところを見るのも観劇のやり方だけど、多分一人の人をじっと見るのも邪道でもなんでもなく、それはそれで一つの観劇体験だと思う。そして、そういう見方をしようと思えるのは、舞台のその人自身が好きだからであり、好きと思えることがきっかけで、舞台に対して違う見方ができることは申し訳なく思う必要は別にない、一つの幸福だと思ったりする。

 手紙を書く時はだからどうしても、その人が好きでその人がいるからとその舞台を見にきた人間が、そのおかげで何を目撃できたのか、そこに誰がいたのか、を、たくさん書いて伝えたくなってしまう。演じている本人にどう見えたか伝えるのって意味あるんだろうか……伝えなくてもご存知では……とたまに正気に戻りかけるのだけど、「そこにその人はいた」ということを受け止められたのが私は嬉しいし、人生の断片のようにその人のお芝居を拾えたことこそが、その人が私にくれたものだから。偏った視点になっているとは思うけど、でも、一人の人を見守ることで芝居が立体的に感じられる瞬間が確かにあり、そのことをちゃんと伝えたいと思った。

 好きと思ったら、その「好き」だけが満たされたらいいのかっていうと、本当はそんなことがなくて、その人のことは好きだけどやっぱり「舞台を作るその人」が私にとって特別で、その人がただ見られたら満足ってわけではないなと思う。やっぱり演じたり踊ったりしているその人を眺めている時に、「好き」でよかったと思う。その人の作るものを、より細部まで受け取れるのは私がその人を好きだからなんだ、「好き」はきっかけでしかなくて、好きを満たしたいからここにいるというより、好きをきっかけにしてはじめる観劇のその解像度の高さこそが私を充実させている。