好きなその人たちをちゃんと冷静に応援できているのか、礼儀を尽くしているのか、そういう部分でいつまでも不安でいたい。慣れたくないなと思う。回数のことも多分地続きなのだ。自分の欲求のために行動してるって、自覚していたい。どんなに一方通行的で、えぐみをなくして「好き」をきれいなままで保てるんだと言っても、好きなら見に行きたくて、できれば何度も見たくて、好きというだけでなく、きっとそこに熱狂はあり、そのコントロール不能な部分につきあたるたびに、自分が「好き」を汚している気がして心配になる。私は、私のためにその人たちを好きなので、私が私のために行動するのは当たり前のことだけど、でも一方的に「好き」でいられることこそが幸福の根っこにあるとも知っている。そうした形の「好き」を可能にしてくれた、そんな作業を仕事としている人たちにせめて失礼はしたくないって思うのだ。あの人たちの仕事はとてつもなく繊細なもので、はっきり書いてしまうと危ういとも思う。でもその仕事で救えるものは無数にあって、だから私は、あの人たちがこの仕事を選ばなきゃよかったと思うようなきっかけにはなりたくない。自分のために好きだし、その人たちのためだけに生きることはきっとずっとできないけど、でもそこだけは自己満足でも常に守っていたいなと思う。

 たくさん見ることとか、そういうのが私にとってすっきりすることじゃないのは、それは「好き」そのものの行動とは違って「私」が強く出てくることだからだろう。「好き」をきれいな水でに洗ってもらって、それを貫けるようにしてもらったからには、その「好き」をできるだけ汚さずにいたい。私は公演を見たくて見ていて、自分のために行動している。「好き」だからじゃないよ。「何回も見るなんて大好きなんですね」と言われると、うっかり、何回だろうが一回だろうが大好きだよ!!!!と叫びたくなる。何回も見るのは、私が往生際が悪いからで、記憶力を信用してないから。私はいつまでも私のためだけにこんな観劇をしたいなって思う。

 推しだけでなく人生も大切に、という言葉はいつも意味がわからないです、人生を大切にしすぎてしまっていてむしろ怖くて仕方がないんだよ。推しのこと全然見れてない。好きってまっすぐに思えることは人生の宝物で、それ以上何があるっていうんだろう?そして、その「好き」はあの人達のためにあるのではなく私のためにある感情なんだ。いつもそれを抱えて人生を爆走している。好きな人たちのためだけに生きるのではなくて、私は私を幸福にしているだけ。超情けない!ってたまに思う。思うけど、やっぱり私は幸せが楽しくて、幸せを目指し続けてしまいます。せめて、自分のそんな身勝手さの言い訳に「好き」を使わないで済ませられたらいいな。とっても好きだ、と思えた時に人生が始まる。その人生を今は爆走している。勝手に。もらった「好き」にできるだけ指紋をつけないようにして、抱えながら、私は、私のために走る。