人が生きている以上は「かかる」もの

日本でもにわかにストライキが増えてきているらしい。SNSを覗くと、「ストライキはいいが迷惑をかけるのはよくない」という意見についてさかんに議論されていた。「迷惑」という言葉は、コロナ禍が始まった頃にもよくネットで見かけた。日本では、何かあるたびに「迷惑」という言葉が浮上し、それについて議論されるようだ。

「迷惑」を辞書で引くと、troublesomeやbothersomeなどの訳が出てくるが、ずばり、inconvenienceも訳語として挙がってきた。「不都合」である。これほど不都合が問題視され、議論される社会というのは、不都合への耐性が低いのではないだろうか。
確かに、不都合は面倒くさいし、厄介だ。ふだんはスッといくことが、そうはいかなくなるからだ。そんなものはない方が楽なのは間違いないが、時折、いつも通りにいかなくなるのが人生だ。たとえば、人が生まれる。だいたい、赤ん坊はめちゃくちゃ他者の手を借りる存在なので、育てるほうにしたら、24時間が面倒くさいことの連続だ。しかも、最初の数ヵ月はまともに寝ることすらできない。まごうかたなき不都合である。

それから、たとえば出世。これも出世しなかった人にとっては不都合だ。すっかりその役職に就けると思ってマンションを買う計画や、親への仕送り額を増やす算段をしていた人もいるかもしれない。出世した人は、こうした人々の出世を不可能にしたことにより、都合の悪い状況を作り出している。入試合格なんかも同様だ。合格した人は誰かの枠を奪うことで他者にとっての不都合を生み出している。

このように人間は、慶事と呼ばれる事柄においてさえ不都合を作り出す。つまり、人は人に迷惑をかけずには生きていけない存在なのだ。そういえば、昨今、日本では「コスパ(費用対効果)」とか「タイパ(時間対効果)」とかいう言葉も流行っているようだが、これも似たようなもので、コスパとタイパを追求するなら、生まれてこないのが一番いい。生まれてこなければ一銭もお金を使わないし、時間も使わない。

迷惑にしても、費用にしても、時間にしても、人が生きている以上は「かかる」ものであり、「かける」ものなのだ。それをかけないようにするというのは、生の倹約であり、もっと平く表現すればケチである。

ケチが悪徳であるということは、ディケンズの『クリスマス・キャロル』のスクルージを見てもわかるが、倫理以外の部分でも、ケチが増えるとお金が世の中に出回らなくなり、そうなるとどうなるかというと、経済全体が縮小する。だから、その悪循環を打破するために「もっと使えるお金が欲しい」と労働者が時々ストライキを起こし、それによる不都合を「まあ、しゃーねえな」と人々が受け入れる。そんな社会のほうが、ケチ(stingy)の反義語である寛容(generous)に近づくようにわたしには思われる。