ソクラテスの裁判と生きている過去

独創的な発想は連続性がないことが特徴で、「生きている過去」から将来を見通すことが大切になります。歴史の中で、解決されずに現在も問題として存在し、常に意識していなければならない過去というものがあるのです。それを理解していると、現代の様々な課題に自分なりによい答えを出していくことができるんですね。

『伝説の校長講話――渋幕・渋渋は何を大切にしているのか』(著:田村哲夫/聞き手:古沢由紀子/中央公論新社)

最初に挙げる過去は、ソクラテスの裁判です。紀元前399年ですから2500年くらい昔のできごとです。ソクラテスは裁判で受けた死刑宣告を、そのまま受け入れて処刑されました。

当時のギリシャ半島には、一人一人の人間としての尊厳を尊重するスパルタ、アテネ、テーベなどの小規模な都市国家がありました。そういう地域から、ギリシャ哲学という学問が生まれるわけです。ギリシャの人たちはまず宇宙について考え、人間の存在について考えました。

宇宙を考えることは今の大学の理系、人間を考えたことが文系につながります。これが大学という組織の基になり、ギリシャ哲学から生まれた学問をまとめて学ぶ科目群がリベラル・アーツになりました。今も世界中の大学で、学問の基本として位置づけられています。

ギリシャ哲学の祖はソクラテスで、弟子のプラトンがつくった学校がアカデミアと呼ばれ、今も学者の集まりを意味するアカデミーという言葉になって残っています。アリストテレスがつくった学校はリュケイオンといって、フランス語の学校を意味するリセの語源になりました。

ソクラテスは、人間にとって大事なのは、知らないということを知っていること、「無知の知」だと説きました。若い人を集めて対話を重ね、その中でギリシャの宗教や神話を批判したわけです。都市国家の人々は裁判で投票の結果、若者に危険思想を伝えているとしてソクラテスに死刑を宣告しました。友人らは死刑から逃れるために早く危険なアテネを出るように促したのですが、ソクラテスは最終的には逃げずに、判決通り自分で毒杯を飲んで死ぬのです。

ソクラテスは人類史上で最初に、一人一人が自分で考えることが大事だと説いた人でした。その言動が危険視されて死刑になったわけですが、彼の思想は人類の発展に大きな影響を与えました。社会のルールの意味を考えもせずに従えばいいという生き方では、アリやハチの社会と同じになってしまいます。

その概念を壊してくれたソクラテスが理不尽な死刑宣告を受け入れたのは、「ソクラテスの謎」と言われています。これが今も生きている過去の一つ目です。