同担拒否とかいう言葉はよくわからなくて、というより、この言葉自体、使う人によって印象も意味も違っていて、この言葉を軸に自分のことを考えることは難しいなとよく思う。ただみんなで一つの「好き」を作って、一人の人を応援する感覚にはなったことがなかった。「好き」なんて自分でもどんな感情かわからないし、他人の感情はまた別物で余計にわかるわけもない、「同じ」かどうか確かめようがないって気がする。一緒だねって話してしまうことで、そうやって一つの「好き」に揃えていくことで、個人的な、あいまいでこまかな「好き」の枝葉を忘れてしまうならそれだけは避けたいと思うし、それは相手のためでもなんでもなくて、私が私のためにその人を好きになっているから。私はその自分の感情を、よくわからない部分があっても全部、捨てずに、忘れずにいたいと思っている。「好き」は私の中で完結している、私のために生まれて私の中で咲いている。だから、私が全てを覚えていたいんだ。

 私は、宝塚が好きな人と話すのが好きです。一人で自分の全部の「好き」に向き合っていると、たまによくわからなくなる、そしてしんどい気がしてしまう。でもだれもこの答えを持っているとも思わなくて、話したら答えが見つかるとも期待していなくて、そうではなくて、ただ目の前にいる人がどんなふうに宝塚を楽しんでいるかとか、嬉しい気持ちになったかを聞いて、私も「好き」の海の底から、遠くの海面にある揺らぎや光のつぶを見上げて、眺めていたいだけなのだ。宝塚が好きな人同士で話すとき、できるだけ私は明るいことしか言わない。それは嘘をついているわけでもないし、全部の「好き」をそのまま他人に聞いてもらわないのは、警戒しているとか、同じ人が好きな人が苦手とかではなくて、私は私の好きのしんどさを、本当は癒やしたくないからだ。癒さずに、それでも好きの素晴らしさを手元できらきらさせていたい。海の底にいるけれど、底にいること自体はそんな悲観していないのです。この海の水全部が大切で、「好き」に関係する感情は全部忘れずにいたいって思う。私にとってはそれ全てで「好き」だから。そして、私一人にしか見えない海だってこともよくわかっているのだ。誰かを応援することは孤独なことです。でもそれがしたいです。好きだから。何も誤魔化さずに、打ち消さずに、孤独なままで突き進みたい。そのまっすぐさを、見失わないために誰かと希望の話をし続けている。