「第三者」が必要な局面

娘を病院に連れて行ったという。自傷行為をしている現場を目撃したというのだ。それで結局はカウンセリングを受けさせることになり、彼女本人もカウンセリングを受けることになったと延々と綴られていた。

彼女からの長いメッセージを読みながら、息子が小学生時代のことを思い出した。あの頃、ママ友付き合いをしていて気づいたのは、とても仲よさそうにしているママ友たちが、意外と互いのことを知らないという事実だった。どうしてそれに気づいたかというと、なぜかわたしだけはそれぞれのママ友の個人的な事情を知っていたからだ。

わたしには一つの仮説がある。彼女たちが自分の身に起きていることをわたしに明かしてくれたのは、実は、わたしが英国人ではないからではないか。遠い国からやってきた人間であり、自分と同じ文化圏で生まれ育った人間ではないから、あまり人には言わないような(言えないような)ことでも言いやすかったのだ。ともすれば、マウントの取り合いになりがちなママ友のサークルの中で、たぶんわたしはマウントを取らなくてもいい相手と見なされていたのだろう。

家族がカウンセラーにはなれないのと同じように、同じ国で生まれ育ち、同じような教育を受け、同じような常識の中で生きてきた人には、話しづらいこともあるのだ。「外側の人」と言えば差別的に聞こえるかもしれない。が、閉ざされた狭い世界が息苦しくなった時に救ってくれるのは、外側に立っている誰かの存在だ。「第三者」が必要な局面が人生には絶対にある。

思えば、わたしにしても「第三者」だらけの環境が欲しくて英国にやってきたのかもしれない。そう知っているから、積極的に「外側の人」ができることをしていこうと思うことがたまにある。何らかの意味のある言葉が相手に返せるわけではなく、「大丈夫だよ」としか言えなかったとしても。