武田勢はどう行軍したのか
でも、まだ疑問点が残ります。それは武田勢の足どりです。
1万5000とひとことで言いますが、これ、大集団なんですよね。道を3人並んで歩いたとする。その3人を1ユニットとすると、5000ユニットで1万5000人。
前の人とぴったりくっついて進軍するわけにはいきませんので、ユニットは仮に1メートルの間隔で動くものとする。そうすると、武田勢の先頭から最後尾までは、5キロメートルということになります。この人数での隠密行動は不可能。
ドラマでの武田軍は、クーデターの失敗を見届けた後に岡崎城をそのまま攻めるのではなく、「臆病者の家康を叩きに行くか」と吉田城へと兵を進めているようでした。
一方で、実際に甲斐の府中を出発した武田勢は、どういった進路を取ったのか。
駿河(静岡)から? それでは吉田(豊橋)に到達する前に、浜松の家康に気づかれてしまいます。家康はそれなりの対応を取るでしょうから、駿河から三河へ、東海道を利用して、は非常に困難。
なので、やはり三河の北から、と考えるべきでしょう。ただ、このあたりは山が険しいので大軍が通過できる道は限られます。
交通網が整備された現代であれば、鉄道や国道が通っているからこそ移動できています。そうでもなければ危なくて動けません。
それが行軍の常識だからこそ、アルプスを越えたハンニバルは伝説になっているわけです。日本でしたら「さらさら越え」の佐々成政とか。
勝頼は生まれながらの天才というより、おそらく手堅く、すぐれた軍事指揮官だった。だからこそ、好んで危ない橋を渡るとは思えません。