ぼくが想定する進軍経路

以上をふまえて、ぼくが想定する進軍経路は以下です。

武田勝頼は短期間に準備できる兵を率いて、岡崎に向けて急ぐ(ここまではしっかり柴説に乗っています)。

ただ飯田線の通っている道に沿って南下する途中で、弥四郎の企てが露見。謀反の動きが失敗したことを知る。

いまさら岡崎に急行しても仕方がなさそうだ。ではこのまま甲斐に帰るか。

おそらく、そういう意見も出たでしょう。でも今後のこともあるし、とりあえず長篠を占領しておこう。軍議はそう決した。

長篠城が軍事拠点になれば、そこから奥三河の占領を強化するもよし、南へ進んで野田城を落とし、さらに吉田城を囲むもよし。

吉田城が手に入れば、浜松の家康と岡崎の信康を分断できます。駿河方面から遠江を侵掠する動き(堅城で知られた高天神城を陥落させています)も活発なので、家康を孤立させることも可能になる。

そういう狙いを込めた軍事行動だったと想定するわけです。

今回は細かい考証になりました。しかし、ことは織田・徳川と武田の命運を分けた一大会戦、長篠の戦いへの前提です。地に足を付けて、慎重に考察するべきだと考えます。


「将軍」の日本史』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)

幕府のトップとして武士を率いる「将軍」。源頼朝や徳川家康のように権威・権力を兼ね備え、強力なリーダーシップを発揮した大物だけではない。この国には、くじ引きで選ばれた将軍、子どもが50人いた「オットセイ将軍」、何もしなかったひ弱な将軍もいたのだ。そもそも将軍は誰が決めるのか、何をするのか。おなじみ本郷教授が、時代ごとに区分けされがちなアカデミズムの壁を乗り越えて日本の権力構造の謎に挑む、オドロキの将軍論。