事件の通説的な見方
これまでこの事件に関する通説的な見方は、つぎのような『三河物語』の記述によって形作られてきたものである。
すなわち、信康の正妻徳姫が、信康や築山殿の不行跡を一二ヵ条にわたり列挙し、これを酒井忠次に持たせて父信長に訴えた。
信長が忠次に質したところ、一〇ヵ条まですべてそのとおりだと認めたため、あとの二ヵ条は聞かずに、「老臣がすべて承知しているということならば疑いない。これではとてもものにならないから、腹を切らせるよう家康に申せ」といわれた。
忠次からこれを聞いた家康は、「忠次がいっさい弁明しなかった以上、腹を切らせるしかない。今は大敵を抱えていて、信長の命令に背くことはできない」とし、やむなく処罰に踏み切ったというのである。
ここでは、悪いのは信康を中傷した徳姫と、いっさい弁明しなかった忠次であり、家康は信長の命令でやむなく信康を処断したのだといっている。このような見方を採る研究者は、現在でもかなり多い。
しかしながら、これは著者である大久保忠教の家康や信康を庇おうとする気持ちが強すぎて、事件の真相からはかなりかけ離れた見方である。