直接の原因とは
信康事件に至る直接の原因は、粗暴だといわれていた信康の資質と、徳姫との不和にあったと考えられる。
たとえば『松平記』によれば、「武辺(ぶへん」は勝(すぐれ)」ていても、「余りに荒き人にて、かりにも慈悲と云うことを知らず」とまでいわれ、鷹狩りに出かけた折に、僧侶を無残に殺害するようなこともあったという。そのような振舞は家臣にも及び、『当代記』によると、「 被官以下に無情に非道を行なわれる」といわれている。
徳姫との関係でいえば、当初は夫婦仲が悪いわけではなかったようであるが、『松平記』によると天正五年(一五七七)頃から不和になったという。
二人の間で天正四年に女子が誕生した時には、「三郎殿も築山殿もそれほど悦ばれなかった」といい、翌五年にまた女子が誕生して、「三郎殿も築山殿も御腹立ちになった」といっている。これが不和の原因になったというのである。
二人の不和が深刻になる中で、『家忠日記』によれば、天正七年(一五七九)六月五日に家康が「仲直し」のため、わざわざ浜松から岡崎に出向いたようである。しかしながら、調停は不調に終わったようで、家康は信康処断の決意を固め、七月から九月にかけて一気にこの問題の決着を図った。