家臣の動揺や反発に備えた家康
嫡男信康の追放という荒療治を行なったため、家康は家臣の動揺や反発に備えるため、手早く各種の対応策をとった。
『家忠日記』によると、家忠が五日に岡崎城にやってきたところ、家康から「早々に弓・鉄砲の衆を連れて西尾へ行くように」と命じられ、ただちに西尾(西尾市)に向かっている。九日には信康は、大浜から堀江城(浜松市西区)に移された。
十日には家臣たちを岡崎城に集め、信康へ内々に手紙などを出したりしないよう、起請文を書かせた。これだけの措置をとり、岡崎城は本多重次を留守居として守らせ、十三日に家康は浜松に帰った。
信康にかかわる『家忠日記』の記事はそこまでで終わっているが、その後すでに述べたように、信康は九月十五日に二俣城で自刃させられ、築山殿もそれより早い八月二十九日に富塚で殺害されたのであった。
のちに信康を供養するために建てられたのが清瀧寺(浜松市天竜区)で、境内には信康廟もある。
※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。
『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)
弱小大名は戦国乱世をどう生き抜いたか。桶狭間、三方原、関ヶ原などの諸合戦、本能寺の変ほか10の選択を軸に波瀾の生涯をたどる。