信康処断の決断は家康自身が行なった?

家康は七月十六日に酒井忠次を使者として信長のもとに遣わし、信康処断の方針を伝えて了解を求めた。信康は信長の娘婿だったというだけでなく、この頃には家康は家臣の立場であり、主君の了解を求めたということにもなる。

これに対して信長は、『当代記』や『松平記』によれば、「家康の存分次第」、つまり家康の思いどおりにするようにと返答した。

『三河物語』にいうような、信長が信康の切腹を申し付け、家康がやむなくこれに従ったというようなことではなく、信康処断の決断は、あくまでも家康自身が行なったのである。家康にとって、まさに苦渋の決断であったことはいうまでもない。

こうして、家康は八月三日に浜松から岡崎に向かい、翌四日に信康をただしたうえで岡崎城から追い出し、大浜(愛知県碧南市)へと移した。そしてこのことも、八月八日付の堀久太郎(秀政)宛書状写で、ただちに信長に報じたのであった。