事件の真相は

これに対して、「松平・徳川中心史観」を排し、あらためて関係史料を精査し、その後の研究の出発点となった見解がすでに示されている(新行紀一『新編岡崎市史』中世2、第四章第2節三)。

富塚にて殺害された築山殿(写真=西来院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

筆者もまたこれを基本とし、あらためて研究史と関係史料とを見直すことで、少しでも事件の真相に近づくように努めてきた(拙稿「松平信康事件について」など)。それに基づき、以下、事件の経緯とその真相について考えてみたい。

なお信康の姓であるが、家康が徳川改姓を行なっているので、嫡男信康も当然徳川姓であるとみなされ、「徳川信康」とされることも多い。

ところが、信長の文書で娘婿信康のことを「松平三郎」といっているものがあるので、信康は父家康とは異なり、松平姓のままであったことが明らかにされている。