目が合うとかそういう話をいつのまにか誰にもしなくなっていた。目が合った、と断言しようとする時、好きな人に関してはそう断言すること、そしてそれを他人に話すことで、自分がなにかに満たされてしまう気もして、それがなんだか自分の気持ちとずれすぎていて、その矛盾に耐えられなくて、確信してたって「幻覚かも」とつけくわえたくなるし、そう言っているうちに本当に幻だったような気がしてきてしまうから。本当はすごくはしゃいでいるはずだけど、誰かにむけてはしゃぎはじめたら、「はしゃぐ自分」がはっきり見えて、それが本当に「どこまで自分を占めてる感情」なのかわからなくなりそうで怖いのだ。そして、その瞬間の出来事を誰にも話さない限り、自分の感情とも別個で、目が合ったその時の記憶を残していける気がしている。でも、それでも、ファンレターには書いてしまうんですよね。もはや唯一そのことを話せるのが目が合った本人だけになっている。そして本人に書く時は、「気のせいだと思うんですが!」は絶対に言ってはならない気がして(客席を見るのも彼女たちの仕事だから)、断言を断言のままにして送るしかなく、でもそれが、自分の中でちょうどいいのだ。その流れで私はちゃんとその人に向けての「好き」を正直に書けている気がするのです。
 相手にとって自分の「好き」が価値があるかどうかなんて私が知りたがってもしょうがないのであり、もちろん相手にそれを保証してほしいなんて思うわけにもいかない。無限の愛は相手が手を差し出していなくても、それでもそこに垂れ流していけばいいだけなんだ、本当は最初からわかっている。受け取るかどうかを心の底から相手に任せて、そこに不安を抱かずにただ伝え続けることができるなら、それが一番だよなぁと、目が合った日があって嬉しかったんです、と書いている時に思う。目が合って嬉しかったんです、なんてものすごく告白だよなぁ。好きです、って書けるなんて嬉しいな。自分の勇気と、なにより相手が誇り高い舞台人であることに、こういう日、こんな手紙を書く日、いつもとてつもなく感謝をしている。