すべては「家」を守るため

信康の最後の様子を語っているのが『改正三河後風土記』です。

それによると、検死役として派遣された服部半蔵と天方山城の二人に対し、信康は「私は決して謀反はしていない。それを父に伝えてほしい」と願った。それを言明し、以て従容として死に就いた、とあります。

この本は一応、儒学者の手による江戸幕府の編纂物ですが、戦国時代の泰斗、桑田忠親先生の指摘があるように、とても細部まで信用するわけにはいかない。ただ、そこからヒントを得ることはできる。

というわけで、この箇所を読んだぼくは、信康は徳川の「家」を守りたかったのかな、と改めて思ったのです。

妙な喩えですが、関ヶ原の大一番、大名家はそれぞれに「家」を守るための<生き残りの策>を講じました。たとえば…

前田家:兄の利長は東軍、弟の利政は西軍

鍋島家:父の直茂が東軍、子の勝茂は西軍

真田家:父の昌幸は西軍、子の信幸(信之)は東軍

九鬼家:父の嘉隆は西軍、子の守隆は東軍

などに分かれています。

そしてこれにより前田利長は加賀藩藩主、利政は浪人に。鍋島直茂は肥前国佐賀の領土を安堵、鍋島勝茂は問責なしに。真田信幸は信濃上田藩藩主、真田昌幸は蟄居に。九鬼守隆は志摩鳥羽藩藩主となり、嘉隆は切腹に追い込まれています。

家康の前に集う昌幸、信幸(信之)、幸村ら真田一族。後に犬伏にて東軍・西軍に別れることに(柳水亭種清 編『絵本真田三代記』2編,小林鉄次郎,明15.6. 国立国会図書館デジタルコレクション  (参照 2023-07-04))

つまり親子兄弟、どちらかが犠牲になっても「家」は守られる、という工夫をしていたのです。ドラマでも切腹した信康が「わしが徳川を守ったんじゃ!」と叫んでいましたよね。