すべては「家」を守るため
信康の最後の様子を語っているのが『改正三河後風土記』です。
それによると、検死役として派遣された服部半蔵と天方山城の二人に対し、信康は「私は決して謀反はしていない。それを父に伝えてほしい」と願った。それを言明し、以て従容として死に就いた、とあります。
この本は一応、儒学者の手による江戸幕府の編纂物ですが、戦国時代の泰斗、桑田忠親先生の指摘があるように、とても細部まで信用するわけにはいかない。ただ、そこからヒントを得ることはできる。
というわけで、この箇所を読んだぼくは、信康は徳川の「家」を守りたかったのかな、と改めて思ったのです。
妙な喩えですが、関ヶ原の大一番、大名家はそれぞれに「家」を守るための<生き残りの策>を講じました。たとえば…
前田家:兄の利長は東軍、弟の利政は西軍
鍋島家:父の直茂が東軍、子の勝茂は西軍
真田家:父の昌幸は西軍、子の信幸(信之)は東軍
九鬼家:父の嘉隆は西軍、子の守隆は東軍
などに分かれています。
そしてこれにより前田利長は加賀藩藩主、利政は浪人に。鍋島直茂は肥前国佐賀の領土を安堵、鍋島勝茂は問責なしに。真田信幸は信濃上田藩藩主、真田昌幸は蟄居に。九鬼守隆は志摩鳥羽藩藩主となり、嘉隆は切腹に追い込まれています。
つまり親子兄弟、どちらかが犠牲になっても「家」は守られる、という工夫をしていたのです。ドラマでも切腹した信康が「わしが徳川を守ったんじゃ!」と叫んでいましたよね。