信康は“徳川”ではない
信康も同様ではなかったか。
父の家康は織田の同盟者であるから、自分は武田と連絡を取って保険をかけよう。そんな考えがあったのではないか。
だからそれは徳川の「家」を守る行動であって、父に背く気は微塵もない。父さん、謀反じゃないんだ。そのことだけは、どうか分かってくれ。信康は家康にそう伝えたかったのではないでしょうか。あくまでも想像に過ぎませんが。
なお、お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、この原稿で、ぼくは終始「信康」としか書いてません。
徳川家康の長男なのだから、当然、徳川信康でしょ?
いや、そうではないのですね。
徳川家が天下を取ったあと、徳川を名乗れるのは徳川宗家と、尾張・紀伊・水戸の御三家に限られた(のち田安・一橋・清水の御三卿が加わる)のです。だから、信康の表記は、徳川信康ではなくて、あくまでも松平信康、なのです。
もしも信康の行動が「家」を守りたいという願いから出ているのだとしたら、徳川信康を名乗れないなんて、彼には何とも気の毒な仕儀であるといえましょう。
『「将軍」の日本史』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)
幕府のトップとして武士を率いる「将軍」。源頼朝や徳川家康のように権威・権力を兼ね備え、強力なリーダーシップを発揮した大物だけではない。この国には、くじ引きで選ばれた将軍、子どもが50人いた「オットセイ将軍」、何もしなかったひ弱な将軍もいたのだ。そもそも将軍は誰が決めるのか、何をするのか。おなじみ本郷教授が、時代ごとに区分けされがちなアカデミズムの壁を乗り越えて日本の権力構造の謎に挑む、オドロキの将軍論。