治療の決定権は医師ではなく自分にある

65歳を過ぎたら、もう一つやっておきたいことがあります。

「どんなふうに生き、死んでいきたいか」という死生観を具体的に持つことです。

その死生観によって、医療とのかかわり方が変わっていきます。

私自身のお話をしましょう。数年前、血糖値が急に上がり、1か月で5kgも体重が減少したことがありました。結果的には糖尿病でしたが、膵臓(すいぞう)がんが疑われ、多くの検査を受けました。

そのときに、「膵臓がんだった場合、治療は受けない」と私は心に決めました。

膵臓は肝臓とともに「沈黙の臓器」と呼ばれています。自覚症状が出たときには、かなり進行していることがほとんどです。なんの治療もしなければ、最後は心身ともにボロボロになっていく可能性があります。

その死生観によって、医療とのかかわり方が変わっていきます(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

それでも、動けるうちは、そこそこの体力を保ったまま、好きな旅行も映画制作もできるでしょう。おいしいものを食べる体力もあります。人生の最期に、なるべく長く元気で、好きなことをやりたい放題やって、死んでいく――。これが私の死生観です。

死生観は人それぞれです。死に方に正解も不正解もありません。自分自身の死生観をもとに、今この瞬間の体と心の声に耳を傾ける――。それが生きることの基本です。

65歳からの医療とのかかわりは、これからどう生きて、どのように死んでいきたいかを考えることが重要になります。ところが、「治療方針は医師が決めるもの」と思っている人が少なくありません。

医師のいいなりになって治療を受けるということは、自分の人生を他人にゆだねることと同じ意味です。もちろん、「病気になったら、すべてをかかりつけ医にゆだねる」という死生観をお持ちの人もいるでしょう。それならば、それでよいのです。

しかし、人生の決定権を自分に置きたいと考えるならば、医師にいわれるままに治療を受けるのではなく、「こんなふうに生きていきたいから、それが叶(かな)う形で治療を受けていきたい」と、かかりつけ医に相談する必要が出てきます。