本能寺の変は越中制圧実現の瞬間に起きた
もう一つ、勝家の弁護をしておくと、本能寺の変が起きたのは、越中制圧が実現する、ちょうどその瞬間だったんです。
上杉は東越中の魚津城で織田勢、イコール柴田勢の攻勢を食い止めようとしましたが、四方を柴田勢に包囲されて籠城80日あまり、城の運命はまさに風前の灯でした。
本能寺の変は6月2日。その一日後に魚津城は落ちました。城の守備に当たっていた中条景泰・竹俣慶綱・山本寺景長ら、名のある武将が数多く落命しています。
魚津城の戦いが決着し、越中から上杉の勢力は消滅しました。これはすなわち、上杉家の本拠である春日山城の包囲も時間の問題、ということを意味します。
実際、直江津の春日山城は、細長い越後の西の端っこ、越中・越後の国境に近い。よく「本能寺の変が起きてもっとも安堵したのは上杉である」と言われますが、そういうことなのです。
北陸に配置された当初からの大目標、上杉家討伐にめどが付いた時期だったので、勝家が一目散の帰京を選択できなかったのも、無理からぬところでしょう。