なぜ秀吉は天下人になった後も“羽柴”を大切にしたのか

天正5年(1577年)7月、上杉謙信が加賀国に進出してきたときに、勝家は手取川で謙信と戦い、敗れています。

この合戦の直前、勝家の応援で出陣していた羽柴秀吉は軍議で勝家と意見が合わず、信長の許可を得ずに戦線を離脱してしまいました。

こうした史実をもって二人は仲が悪かった、と解する向きもありますが、それは違うでしょう。

というのは、「羽柴」の家名の使用です。國學院大學の矢部健太郎先生は、天下を取ったあとの秀吉が、「豊臣」の姓と「羽柴」の家名を諸大名に名乗らせたことを研究されています。

ここで「羽柴」の名乗りの許可例は少なく、こちらの方が名誉だったのだ、とされています。

羽柴というのは、よく知られているように、織田家の譜代である「丹羽」と「柴田」を組み合わせたもので、今のところこれを「俗説にすぎない!」としりぞける見解はありません。

それを前提にしての話になりますが、もしも秀吉が勝家を認めていなかったら、天下人になったあとまで、こんなふうに羽柴の家名を大切にするでしょうか。さっさと捨て去ると思うのです。