「読みたい」衝動が「死にたい」願望を凌駕した
そうまでして指の震えを止めたかった理由がある。書きたかったのだ。この時の感情を、自分の身に起きている出来事を、誰にも言えない過去を、私は書きたかった。誰に見せるでもなく、自分のためだけに、自分を慰めるためだけに、ペンを持って文章を書く時間が私には必要だった。薬を正しく服用することよりも、休息を取ることよりも、「書くこと」を何よりも欲していた。そして、それはこの瞬間でなければならなかった。「後で」は書けない。今でなければ書けない。そういう類の焦燥は、言葉で説明しても理解してもらえることは少ない。
当然ながら、この方法が「治療」の観点からみて正しくないことは言うまでもない。患者の自己判断による断薬は、離脱症状による苦しみや病状悪化を招く。私も多分に漏れず、そのルートを通った。それでも、今あの当時に戻ったとしても、私はきっと同じ選択をするだろう。
閉鎖病棟の窓は、数センチしか開かない。むろん、飛び降りを防ぐためだ。病棟内に持ち込む物にも、大幅な制限が課せられる。突き刺しによる自傷や他害の可能性があるため、ペン1本さえ居室に持ち込むことは許されなかった。よって、使いたい時にナースステーションから受けとり、オープンスペースで使用したのち返却するシステムであった。制約が多く、常に監視されているような威圧感に気圧される日々。そんな病棟内において唯一の救いだったのは、図書スペースがあったことだ。漫画や小説、雑誌に至るまで、焦げ茶色の大きな本棚に多数の書物が並んでいた。
入院当初は文章の読み書きどころか、排泄さえ自力で行うことができなかった。しかし、意識が覚醒してくるにつれ、耐えがたい渇きに襲われた。「読みたい」衝動は、私の「死にたい」願望を凌駕した。書く時間以外の大半を、私は「読むこと」に費やした。昼間のオープンスペースは、静寂とは程遠い。集中して書ける時間帯は限られている。しかし、ペンとは違い、本は自室への持ち込みを許されていた。
ベッドに横たわり、物語を手当たり次第に読みふける。時々うとうとと目を閉じ、浅く眠っては目覚め、再び本を開く。誰とも交わらず、医師にさえ心を開かない私にとって、白いシーツと本の手触りだけが、この世界と自分とを結ぶ唯一の糸のように思えた。
浦沢直樹氏が作画を手掛ける漫画『MASTERキートン』、ミヒャエル・エンデ氏による小説『モモ』、シドニィ シェルダン氏の推理小説『天使の自立』、妹尾河童氏の『少年H』。朝から晩まで本を読める環境下に置かれたことで、私の読書欲は爆発した。その中で、私はのちに数十年にわたり続編を追い続ける物語と出会うこととなる。