宝塚を好きになる前は、ほとんどその世界が視界に入っていなかった。存在は知っていたけれど、でも自分と関わることはないと思っていた。10代で音楽を好きになった時も、詩を書き始めた時も、いつもそれらが自分の世界に関わるとは思わなかった。世界にはいろんなものがあって、全てに出逢おうとすればとても忙しくなるはずなのに、実際はそれらのほとんどが視界にすら入らない。窓のない電車に乗って、旅をしているみたいだと思う。何か知らないものに興味を持つきっかけや、触れてみるタイミングって、それこそ、その電車に窓ができることなのだ。うつくしい海が見えたなら、次の駅で降りてみよう、と考えることもできる。興味がなければ降りなければいい。降りて、近くで見ると潮風が苦手だった、とか、そういうのもあっていい。私はただ窓を作りたかったのだと思う。他の人の電車に。そこで降りてほしいとか、好きになってほしいとかではなく。全く違う世界を見ている人間たちと近くで息をしていること、関わりを持つことの豊かさは、もっとさりげなくて、直接的に影響を与えることがたとえなくても、その人の人生の風通しをほんの僅かに変えること。私にはそのささやかさがとても素敵なことに思える。

 何かを好きであることは、他者の人生に関わる時、一つの安堵をくれる。その人にとってどうやっても分かり合えない他者としていることの恐ろしさを、むしろとても美しいことだと信じる勇気をくれる。その人が受け入れてくれるかそうでないかに関わらず私はそれを愛していける、それだけは変わらない、と思えること。そして、だからこそ相手がそれに対してどう思おうが、その人を改めて嫌ったり好いたりすることもなく、変わらない関係でいられると自分を信じられるのは、幸福なことです。誰にも侵食できないものを私は持っていて、それをさらけ出したまま他者と関わっていける。自分はこんなに鮮烈な生き方ができるんだな、と改めて思う。そんな態度でいられるなら、人と生きていくこと、他者と関わることを、(たとえ直接その人に影響を与えたりターニングポイントをもたらさなくても、ただすれちがうだけでも、)豊かさだと思える。私は誰かに自分の好きなものを理解されたいと思っているのではなくて、仲間になってほしいのでも、それをきっかけにさらに親しくなりたいのでもなくて、自分が何かを好きなことは、世界の豊かさの一部だと思うから。誰かにとっての「他者がたくさんいることの豊かさ」になりうると思うから。だから、せっかく関わる人がいるならばその人の通勤途中に見かける花くらいには、「不意に出会う、どこかの誰かが育てている大切なもの」としてさらけ出していけたらいい。その人がそこからどう思うかは私には関係がないけれど、こんなにも閉じた世界に生きていて、関わる人が少なくても、誰かにとっては私は「世界」の一部で、世界の一部としての美しさになれるんだと思うと、嬉しいのです。