好きなものができると、人生は豊かになる、幸福になると言われるとき、私は少しだけ苦しくなる。好きであればあるほど、私はたまにとても悲しくなり、つらくなり、そしてそのたびに私はその「好き」が、自分のためだけにある気がして、誰かのための気持ちとして完成していない気がして、いたたまれなくなる。好きな存在にとって少しでも、光としてある気持ちであってほしいのに、私は、どうして悲しくなるんだろう?
 私は、宝塚が好きです。舞台に立つ人たちが好き。その好きという気持ちが、彼女たちにとって応援として届けばいいなと思っている。そして、同時に無数のスパンコールが見せてくれる夢の中にでも、悲しみもある、不安もある、そのことを最近はおかしいと思わなくなりました。未来に向かっていく人の、未来の不確かさをその人と共に見つめたいって思っている。だから、そこにある不安は、痛みは、未来を見ることだって今は思います。好きだからこそある痛みを、好きの未熟さじゃなくて鮮やかさとして書いてみたい。これはそんな連載です。

 先月、応援している人が休演してしまって、もうどうしたらいいのかわからなかった。心配だし祈るしかないし、本当にその人を思いやるだけの、それだけの気持ちになりたいのに、ひたすらに悲しかったのも事実で、この悲しいって感覚をどうしたらいいのかわからなくて。今思えば悲しくて当たり前なのだけど、それでもどうしても悲しいとは思いたくなくて、思いたくないというその意固地な感覚が、すごく、間違っている気もして落ち込んでいた。

(イラスト◎北澤平祐)

 舞台は生のものであるし、出演者が出られなくなることはあって普通のことで、その人ができる限り早く舞台に戻って来れますように、と強く願っている。(1週間後無事復帰されたのでよかった!)本当に舞台の仕事は、身体とその健康状態がものすごく重要で、物書きの仕事をしている私は自分の身体が仕事に結びついていると思うことはほぼないが、舞台の人たちはその真逆の世界にいる、とよく感じる。だから、とにかく彼女たちが選んだ道にそのまま戻ってこれることが大切で、止まってしまうこととか、休んでしまうこととかは、それに比べたらただただ「しかたのないこと」で終わるのであり、あのころ私は休演者たちが無事に戻って来れますようにということをひたすらに願っていた。