休演はだからいつもまた戻って来れるように、道が続くようにという願いが大きくて、それが本当に第一で、すべてで。でも、ただ好きだから、見たいよなぁ……さみしいな、というのはあり、その感覚って、本当にどうしたらいいんだろう。休演されている時のチケットも取っていたし、幕が上がることはとてもめでたいことだからもちろん見に行ったけれど、さみしさはすごかったです。好きな人が、いたところにいない、というのはやはりとてもショックだし、それくらい私はその人が好きなんだなぁと実感もした。代役の人たちがみんなすごい……と思うし、幕が上がって本当に良かった、と感じながら、でも、悲しいは悲しいです。当たり前のことですが。そりゃ好きだからね!悲しいですよ……。でもこの悲しいという気持ちが責任感の強い舞台の人たちに突き刺さるものだったら絶対に嫌だな……と思って、どうしたらいいのかわからなくなる。というか、そういう意味での悲しいではないし……。嘆くのも違うのかな、と黙りそうにもなり、それはそれで、嘘なような気がした。こういうことは起こり得るのが舞台だと思う、無茶をしてほしいとは絶対に思わないし、またその人がその人の選んだ道に戻れたらいいと願っているから、それまではそのための最善の選択がとられてほしいと思うし、しょうがないこと、どうしようもないことが起きる世界だからこそ、ガーンってなってしまうファンが出てしまうのもある意味しょうがなくて、そこは気にしないでと思うが、気にしないでと言って気にしない人はあんな世界にあんな長いこといるんだろうか……とも思うし。でも、そうしたどうしても湧く気持ちとしての「責任感」はあの人たちにあるのかも、と想像しながら、それでも私は、こういう時のファンの悲しみは、舞台の人に責任があることでは絶対にない、って思う。ファンだからそう思うとかではなく、本当にそこは一切関係がないって、今は考えている。すごく好きだから、待たなければならないタイミングなのに淡々とは待てなくて、悲しくてさみしい、というだけ。愛情を持て余して、そして大して心が強くないから、悲しくなってしまうだけ。責任を感じさせたくないから悲しみたくない、悲しいと言わないようにする、というのもだからきっと違っていて、私は、私の中で完結した悲しみをいつまでも自分の中で完結したものとして抱えていればいいのだと、だんだんと思うようになっていった。私の悲しみに、私はちゃんと優しくいたい。私の悲しみは全て、「あの人が戻ってくるのが待ち遠しい」という気持ちの表れなんだということを見失わずにいたら、それが一番なような気がした。
 休演中ずっとその人宛で手紙を送っていたけれど、観劇のあと悩んだ末に、いなくてさみしかったし、やっぱり舞台にはあなたが必要です、いつまでも待ってます、と書いた。応援しているその人の強さを、信じることしかできない。自分の悲しみが相手に苦しみを与えるかも、なんて思わずに、こちらが届けたい「愛情」のほうを見てくれる、そういう強い人だと信じるしかなくて、そして、心から信じられるからそう書いた。こんな時でもその人の「舞台人としての誇り高さ」に救われているな、と書いていて思った。