「伝える」という作業に一度入れば、悲しみは隠したり誤魔化したりする必要もなく、当たり前に祈りの言葉に変わっていく。悲しみが澄んで、その根っこにある「好き」という気持ちが浮かび上がってくる心地がした。それを受け取る人がどう思うかはわからないけれど、それでも、その言葉を届ける相手が舞台という場でまっすぐに生きる姿をこれまで見てきたから、だから、きっと大丈夫だと思える。というか、もうそれを信じることしかできない。それだけが一番大事だと思うから。いつもずっと誇り高くて、自分の道を見失わない人。ファンの悲しみより、その奥の愛情を受け取れる人だと思う。実際はどうなのか、というより、私にはそう信じられた。信じられたというのはその人がこれまでにくれた一つの宝物だから、私はそれをよすがとします。
 悲しみはあってしかたがない、と私は私を許すことが最初とても困難だった。でも、この悲しみは「好き」であって、「待ってます」であって、そのことをちゃんと知って、私は私の悲しみを、私の愛情と同じくらい大切に、自分ですべて抱きしめてあげればそれでよかったのだ。待ってます、とその人に伝えようとする時、なんのコントロールも誤魔化しもなく、素直にさみしいと思ったことを書けるのは、本当に幸せなことだと思う。その勇気を、舞台の人がくれたんだから。
 私はよく、舞台の人がファンの「好き」を守っている、と思う。それはその人が舞台に立たない日々の中でもそうだった。悲しみを恐れず、悲しみにある愛を貫け。悲しみも、愛せよ、私。復帰初日の舞台を見れたのが、本当に幸せで、ひさしぶりにお日様を見れたような、そんな晴れやかな1日でした。