「時代背景を色濃く映し出す青春小説は、大人になってから読んだほうが面白いと改めて気づかされました」(撮影:藤澤靖子)
1994年に『妊娠小説』で文芸評論家としてデビュー、雑誌や新聞で文芸評論家として活躍する斎藤美奈子さん。ある時、日本の近代の青春小説、恋愛小説を改めて読み直すと「なんじゃ、こりゃ?」と感じる作品が多いことに気付いたと言います。「男性は好きな女性に告白できず、たまに恋が成就すると相手が死んでしまう」――斎藤さんが分析する、明治・大正期に書かれた作品の多くがこのパターンだった、その理由とは。(構成=篠藤ゆり 撮影=藤澤靖子)

文豪は女性が描けなかった?

15年ほど前、日本の近代の青春小説、恋愛小説を改めて読み、「なんじゃ、こりゃ?」と感じる作品が多いことに気づきました。たとえば、熱海の海岸に建てられた『金色夜叉』の銅像、皆さんどう思います?

寛一が「ちええ、腸(はらわた)の腐った女!姦婦!」などとほざきながら、下駄でお宮を蹴るシーン。つまりDVの瞬間です。これが観光名所になっているとは!

「男性は好きな女性に告白できず、たまに恋が成就すると相手が死んでしまう」。明治から大正期に書かれた作品には、このように要約できるものが実に多い。なぜそんなにワンパターンなのか、12篇を取り上げて分析したのが本書です。

小説は書かれた時代背景と切っても切れません。明治10年代、自由民権運動の時代の「今どきの若者」は、武闘派で血気盛んな「壮士」と呼ばれていました。しかし明治も20年代に入ると、若者の関心は天下国家よりも個人の内面へと移り、悩める「青年」という流行語が誕生します。

この「青年」が主人公の作品としてよく知られているのが、夏目漱石の『三四郎』。地方のエリート青年である小川三四郎が、立身出世を遂げようと上京、都会的な女性・美禰子(みねこ)と出会います。彼女のことを一方的に好きになりますが、告白できず恋は終わってしまう。

恋愛と出世が若者の関心事であり、それが描かれるのが、近代小説の1つのパターンとなったわけです。