好きなものができると、人生は豊かになる、幸福になると言われるとき、私は少しだけ苦しくなる。好きであればあるほど、私はたまにとても悲しくなり、つらくなり、そしてそのたびに私はその「好き」が、自分のためだけにある気がして、誰かのための気持ちとして完成していない気がして、いたたまれなくなる。好きな存在にとって少しでも、光としてある気持ちであってほしいのに、私は、どうして悲しくなるんだろう?
 私は、宝塚が好きです。舞台に立つ人たちが好き。その好きという気持ちが、彼女たちにとって応援として届けばいいなと思っている。そして、同時に無数のスパンコールが見せてくれる夢の中にでも、悲しみもある、不安もある、そのことを最近はおかしいと思わなくなりました。未来に向かっていく人の、未来の不確かさをその人と共に見つめたいって思っている。だから、そこにある不安は、痛みは、未来を見ることだって今は思います。好きだからこそある痛みを、好きの未熟さじゃなくて鮮やかさとして書いてみたい。これはそんな連載です。

 夢を見る人たちを追いかける限り、その人たちは今も夢を見ていて、生き甲斐としてその世界にいるのだと信じてしまうところがある。実際はどうかなんてわからないのに。その人がどんな夜景を毎日見ているのかすら知らないのに。励ましたいと思いながら、その人たちが向き合ってるもののことをなにもしらないことに気づいて、励ます……とは?と立ち止まり、でもそれでも、私がその人に幸福でいてほしいとか、よき日々であってほしいと願うことはものすごく当たり前のことで、というか私は好きな人だけでなく全ての人に穏やかな日々があってほしいよ。そして、自分が心から好きだと思う人のことは、たくさん考えてしまうから、何度も考えてしまうから、そのたびに自分の目の前にある綺麗なものや、自分が素敵だと思う一瞬や、そういうものに心が満たされる感覚が、あの人にもあればいいなと思う。幸せになってほしいという言葉にすることもできるが、要するに、とても好きです、ですべてが言えてしまう。好きは、いつも思いやることで、いつも忘れずにいることで、自分自身の幸福の右隣にあるようなもの。何かが満たされる時も、とても悲しい時も、思い出される存在だ。

(イラスト◎北澤平祐)

 私は季節が好きなので、季節の変化をとても綺麗と思う。最近はちょうど夏から秋に変わる最高の時期で、全ての酸素が光にさらされているみたいにピカピカしている。それらを見ながら、同じようにこの美しさにその人が囲まれていたらいいなと願う。励ましたいというか、全て美しさがその人に届いていたらいいなと思う。そのほうが言葉としては、ほんとは近いのかもしれない。どうなってほしいかとか、どんな日々を送ってほしいとか、そういうふうに願うのも、私はなんだか勇気が出なくてなかなか言えないし、書けない。季節が好きなのは、私がその美しさに美しいなと思えた時、この(四季が共通する)世界に生きている人には、みんなに今それらが訪れているというのがわかって、嬉しいから、というのもある。どうか気づく瞬間がありますように、と思う。