松本潤さん演じる徳川家康が天下統一を成し遂げるまでの道のりを、古沢良太さんの脚本で巧みに描くNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。第41回で大坂城・西ノ丸に入った家康。政治を意のままにおこない、周囲から天下人と称されているのを茶々(北川景子さん)は苦々しく見ていた。そんななか、会津の上杉景勝(津田寛治)に謀反の噂が広がり――といった話が展開しました。一方、静岡大学名誉教授の本多隆成さんが、徳川家康の運命を左右した「決断」に迫るのが本連載。今回は「なぜ関ヶ原だったのか」についてです。
三成挙兵に対する家康の対応
慶長五年(1600)八月五日に江戸城に戻った家康は、上方で石田三成・大谷吉継らの挙兵に対し、ただちに西上するというようなことはなく、そのまま江戸にとどまって、諸方面との対応に当たった。
とりわけ、「小山評定」の時点では三成らの挙兵の報しか届いていなかったが、その後、七月十七日に三奉行が背いて「内府ちかひの条々」を発し、さらに毛利輝元が大坂城に入って秀頼を擁するという予想外の事態の展開が明らかになり、西上した豊臣系諸将がどのような動きを示すのかを見極める必要があった。
その答えは、豊臣系諸将が西軍の美濃岐阜城(岐阜県岐阜市)を攻略したことで明らかになった。すなわち、八月十日頃からつぎつぎに尾張清須城に集結していた豊臣系諸将らは、十九日に家康の使者村越直吉が来るに及んで行動を起こすことに決し、二十三日には早くも岐阜城を攻略したのである。
城主の織田秀信(信長の嫡孫、幼名は三法師)は降伏・開城し、その後剃髪して高野山へ送られた。これによって、豊臣系諸将らが引き続き家康を支持していることが明確になった。