カップライス
カップヌードルが大ヒットし、日清食品はインスタントラーメンのトップメーカーとしてさらに成長を遂げました。仁子は会社が落ち着けば、百福との静かな生活がきっと手に入ると願っていましたが、なかなかそうはいきません。相変わらず百福は仕事一途で、新しい開発に熱中していたのです。
「カップライス」というコメのインスタント食品でした。
その頃、日本は豊作が続き、政府の倉庫には古米、古古米と呼ばれる余剰米が山と積まれていました。保管料が高いため、琵琶湖の底に沈めて保管してはどうかという企画がまじめに議論されていました。
食糧庁長官から「コメの加工食品を考えてほしい。お湯をかけただけで食べられるようなものは開発できないか」と相談されました。チキンラーメンとカップヌードルの技術で、コメの問題を解決できるのなら、これに越したことはありません。
またしても「お国のためになるなら」と、ふるい立ったのです。
コメは日本農政のかなめです。百福の仕事に、まるで国家的プロジェクトのような期待が集まりました。1970年代の半ばには、コメの加工品と言えばレトルト米飯しかなく、その味も家庭で炊くお米とは大きな開きがありました。
カップライスはお湯をかけただけで「エビピラフ」「ドライカレー」「チキンライス」など七つの味が楽しめるカップ入りの加工食品でした。新聞には「奇跡の食品」「米作農業の救世主」という見出しが躍りました。
百福は長い実業家の人生で、これほどほめそやされたことはありません。成功を確信しました。「ラーメンの仕事はほかの人にまかせて、これからは国のためにコメの仕事に専念してもいい」と考えるほど、完全に舞い上がってしまいました。すぐに、滋賀工場に製造設備を導入し、当時の日清食品の年間利益に相当する三十億円を投じたのです。