(写真提供:Photo AC)
「この国で各地の地裁に起こされた民事訴訟は年間14万件、起訴された刑事事件は6万件。そのうちニュースとして報道されるのは、ごくごくわずかな一部にすぎません」と語るのは、日本経済新聞電子版「揺れた天秤~法廷から~」の取材班。そこで今回は、この大好評連載をまとめた書籍『まさか私がクビですか? ── なぜか裁判沙汰になった人たちの告白』より一部を抜粋し、<学びになるリーガル・ノンフィクション>をお届けします。

自分がいなくなったら生きていけるのか

2022年5月のある夜。午後11時をまわって妻に「もう寝よう」と声をかけると「まだ早いから新聞を読む」と返事があった。寝かせるために新聞を取り上げようとすると妻は家中を逃げ回った。

妻は数年前から認知症を患い、症状は徐々に進行していた。やっとのことで新聞を取り上げたのは玄関近く。ちょうどその日の昼に新しく付け替えた鍵の確認を頼むと、妻は「開閉」の意味を理解できなかった。

自分がいなくなったら生きていけるのか。元教授は突如、悲観に襲われた。ふと1本のひもが目に入った。輪っかの状態にして首にかけ「早く寝ないと、こうするよ」と語気を強めた。

妻はぼうっとしたような、少し笑ったようにも見える表情を浮かべた。それが生前最後の姿だった。