
3 不思議な彼女(承前)
それからケイスケとジョージは、スタジオに向かうたびに花屋に寄って花を買う。マリアは両親の営む花屋を手伝い始めて間もないらしく、花の種類や計算を間違えたりして母親から小言を言われているが、そのおっちょこちょいなところも客に人気がある。マリアがいない日もあり、そのときはマリアの母親から花を買い、マリアちゃんによろしくお伝えください、と言う。
倉庫の一室を改装した練習スタジオは、花で埋め尽くされていく。バラ、ユリ、カーネーション、ガーベラ……。空き瓶やバケツや鍋に適当に挿されている。
なんだよおまえら、買ってくるのはいいけどちゃんと飾れよ、花瓶はねえのかよ、とギターボーカルのハチともう一人のギターのナベは呆れたり怒ったりするが、ケイスケもジョージも気にしない。ときどき、スタジオを片づけに来るジョージの親戚のおばさんが花を持って帰る。
バンドのメンバーは大学を卒業して数年経つが、ナベが印刷会社の社員なのをのぞけば、ほかの三人は工事現場や運送会社、居酒屋やキャバレーのボーイなどのアルバイトで生活している。世の中は景気がよく、キャバレーの客たちが無駄に金を使うのを横目に見、酔っ払い客に馬鹿にされたりしながらも、彼らは、レコードを聴き、楽器を弾き、音楽の話をする日々が続く。
花屋で花を買うたび、ケイスケもジョージもマリアをライブに誘う。仕事があるから、とマリアはいつもつれない。
初めて出演する店でのリハーサル中、どの曲を演奏するか、メンバーの間で意見が対立する。これまでのベスト曲を並べる構成にするか、ケイスケが作った新曲を演奏するかしないか、開演時間が迫っても話はまとまらない。
ステージに出てみると、観客はまばらにしかいない。しかも、ケイスケたちの後に出演するバンドが目当てのようである。
三曲ほど演奏するが、客たちは演奏中もしゃべるのをやめず、お愛想で拍手をする程度だ。そのとき、店の暗がりの奥に、白いワンピースの女が入ってくるのが見えた。マリアだと、ケイスケにはすぐにわかった。
――ほな、新曲やろかー。
と、ケイスケは予定の曲を無視して言う。
他の三人は、戸惑いつつも仕方がないという表情で、さっきまでの曲調とは違う、ゆっくりとした静かな歌を演奏し始めた。
開演したときよりは少し増えていた観客たちは、雑談をやめてステージを見つめた。
店内の空気が変わったことに気づいたメンバーたちは、より力を入れて演奏をする。ハチのハスキーな歌声が、狭い空間に響き渡った。
ケイスケは、いちばん後ろに立ったままのマリアを見つめる。
黙ってじっと見ていたマリアの大きな目から、涙がこぼれ落ちる。美しい瞳と涙に、青いライトが反射する。
ステージを下りてすぐ、ケイスケとジョージは客席を探すが、マリアはいない。地下の店から階段を駆け上がると、マリアは夜の雑踏に消えようとしていた。
――マリア!
ケイスケとジョージが呼ぶと、マリアは立ち止まる。ケイスケとジョージは走って行き、マリアの前に回る。
――ありがとう! 来てくれたんや!
――君の姿を見つけて、うれしかった!
しかしマリアは素っ気なく、
――楽しかった。じゃあ、またね。
と帰りを急ぐふうである。
ケイスケは思わず、その腕をつかんで、言う。
――なんで泣いてたん?
マリアは、怪訝な顔でケイスケとジョージを見た。
――え? 私、泣いてた?
ジョージも、大きく頷く。
マリアは、笑顔になることはなく、
――わからないけど、きっと、いい曲だったからだと思う。
とだけ答え、帰っていった。
ケイスケは、マリアが泣いた曲、自分の作った曲を繰り返し一人で弾き語り、そして、今までに増して熱心に曲を作り始めた。客の反応がよかったことで、他のメンバーたちもケイスケの作った曲を積極的に演奏するようになり、観客も少しずつ増えていった。
ライブには、マリアはその後も何度か顔を見せた。しかし、いつもステージが終わるか終わらないかというところでさっと帰ってしまう。
花を買いに行ってもマリアはケイスケにもジョージにも客としての対応しかしないが、曲の感想は伝えてくれるようになる。しばらくして、ケイスケとジョージは、マリアを海に連れて行くことに成功する。
冒頭の海の場面が、繰り返される。
浜辺で走った後、三人はジョージの車で岬へ行って海を眺め、夕方には観光地の食堂へ入る。そのあいだ、マリアはバンドの曲やステージについて楽しげに話す。あの曲は誰かの真似みたいでつまらない、とはっきり言ったりもする。
ケイスケとジョージは浮かれながらも、それぞれに好きな音楽や小説の中の言葉について話しはじめる。マリアは、大きな目で二人を見つめて、興味深そうに聞いている。
しかし、食堂で話しているうちにマリアは急に不機嫌になり、一人で帰る、と言い出す。
こんなところからどうやって一人で帰るんだとケイスケとジョージは引き留めるが、マリアは店から出たばかりのカップルに、あの人たち悪い人なんです! 東京まで車に乗せてください! と強引に話をつけて、カップルの車に乗っていってしまう。茫然とするケイスケとジョージ。
「いや、それはちょっと無理あるやろ」
「マリアはなんで怒ったの?」
「わからない……」
しばらくするとマリアはまたライブに現れる。ケイスケたちの音楽活動や生活のエピソードに、ケイスケとマリア、ジョージとマリアがそれぞれ二人きりで会っている場面が差し挟まれる。
マリアがいいと言った曲を中心に演奏するうち、バンドは徐々に人気が出て、ライブハウスも満員になり、ついにレコードが出ることになる。
――やっぱり、天使だったんだ。
――いや、巫女じゃないか。
――とにかくお告げや。
――女には勘がいいのがいるからな。
――男なんて馬鹿だから、女にはかなわねえんだよ。
――馬鹿はおまえだけだろ。
練習場所はレコード会社が所有する設備のいいスタジオに移り、花屋のある商店街に行くことは減った。
ある夕刻、ケイスケはマリアに会えないかと商店街へ向かう。花屋はシャッターは開いているが、ガラスのドアは閉まり照明も消されている。ドアから覗き込むと、店の奥の小さな電灯だけがついていて、椅子に腰掛けるマリアらしき人影が見えた。
――マリア?
ドアを開け、ケイスケは様子をうかがいながら店内に入っていく。マリアが気づいて顔を上げる。その顔は、涙に濡れている。
――……どうしたん?
化粧が頬に流れた顔で、マリアはケイスケを見つめる。
――お父さんが、死んだの。
――えっ。
――長い間、病気で入院してたの。難しい、まだ治療法のない病気で。
――そうやったんや……。ごめん、なんも知らなくて……。
マリアは、独り言のように続ける。
――病気になってから、父はだんだん話せなくなって、病室を訪ねても、いつもぼんやりと窓を見ていて。母も父の親戚たちも、父にはもう話しかけても理解できないんじゃないか、もう家族のことも思い出せないんじゃないか、って言ってたけど、なんでそんなことを言うのか、不思議だった。だって、私にはわかるんだもの。お父さんの目を見ていれば、お水が飲みたい、とか、外の鳥の声を聞いてるんだ、とか。
――そう……。
――でも、もういなくなっちゃった。もう、お父さんの声、きこえなくなっちゃった。私……。
むせび泣くマリアの肩に、ケイスケは手を伸ばしかけるがためらう。
――行かなくちゃ。
マリアは立ち上がった。葬儀は、遠い街にある父親の実家で行われるのだと言う。
――なんか、手伝えることあったら……。
マリアは首を振り、涙に濡れた目でケイスケを見て、呟いた。
――また海に行きたいな。
それからしばらく、花屋はシャッターが下りたままになる。
バンドはツアーに出るが、メンバーのあいだで音楽の方向性に対する意見がだんだんすれ違っていく。
――あの女の言うことに振り回されすぎなんだよ。
――マリアは関係ない。おれがほんまにええと思った音楽しかやりたくないだけや。
――じゃあ今日演奏した曲は心からいいとは思ってねえのかよ。
――わからん。
――なんだよ、それ。
京都での公演には、ケイスケの地元の友人たちが何人も来て盛り上がる。
しかし、ケイスケはどこか浮かない表情のままである。公演が終わったあと、ケイスケは一人で、鴨川の河川敷へと歩いて行く。
夜空の下、流れゆく暗い川面をケイスケは見つめる。川面には、わずかに街灯の光が映っている。
商店街近くのスタジオを取り壊すことになり、ケイスケとジョージは片づけに訪れる。
商店街は休みの店が多く、閑散としている。台車を押して荷物を運ぶ途中、花屋のシャッターが久しぶりに開いているのを見かける。
マリアがいるかもしれないと二人が近づこうとすると、店の前に一台の車が停まる。銀色のBMWである。運転席から下りてきた男は、スーツ姿で大きな眼鏡に坊ちゃん刈りの、真面目そうな男だ。
マリアが現れ、ケイスケとジョージに気づくが、なにも言わず、眼鏡の男がドアを開けた助手席に乗り込んだ。そして、BMWは走り去っていった。
しばらくして、ライブを観に来ていたマリアの女友達から、マリアが結婚すると聞かされる。相手は、あのBMWの男で、建設会社の御曹司ということだった。
――天使じゃなかったんだな。
――一人の女やったってことや。
数か月後、バンドは、どの会場も観客で埋まったツアーの途中で突然解散を発表する。
夜の新宿の雑踏を、ケイスケとジョージが話しながら歩いている。最初に出会ったレコード店の前を通り過ぎる。
――じゃあな。
――おう。
軽く手を上げ合い、彼らは別々の方向へ歩いて行く。
ケイスケは一人、繁華街を離れ、ゆるい上り坂を歩いて行く。肩をすくめ、ポケットに手を入れた後ろ姿は、街灯に照らされてだんだん遠ざかっていった。
「はあー、なるほどー。なるほどなあー」
千景(ちかげ)が、なにに対してかわからない「なるほど」を繰り返した。
「マリア、かわいかったねえ」
衣里(えり)がとりあえずという感じで言い、駒子(こまこ)は頷いた。
「うん。それは同意」
「でも、天使、なあ」
千景が一言一言区切るように言った。
「天使じゃなくて一人の女だった、って言ってたよ」
「天使じゃなくて一人の女、なあ」
何度も繰り返すので、駒子も衣里も笑った。
「若いときに最初に作った映画だし、その後の作品に比べたらつっこみどころはいろいろあるね」
「そうだろうねえ。個人的な思いもけっこう入ってる感じがした。きっと、ミーコを撮りたかったんだろうなーって思ったし」
映画のシーンを思い出しつつ、駒子は言った。監督は母のことを直接知らなかっただろうし、ダイスケのエッセイの中に少しだけ登場した「花屋の女の子」をミーコに投影したのだろうと想像する。
「ミーコって、不倫とか失踪騒ぎとか起こして、芸能記者に囲まれてたの、ワイドショーで見たなあ」
それは千景が中高生の時期だったらしい。まだ幼かった駒子に直接の記憶はないが、あとになってインターネット上で話題になっていたり動画が上がっていたりするのを見たことはあった。
「テレビに出ても奇抜な言動で司会の人が困ったりしてたって言われてるよね」
「あ、それ、動画で見たことある」
当時はまだ生まれていなかった衣里が、駒子も見たことがある動画のやりとりを話した。
――ミーコちゃん、珍しい鳥、飼ってるんだって?
――鳥は恐竜の子孫だから、いつか恐竜になると思ってインコを飼ってるんです。
――へー、そうなんだ。
――知ってますか? ベニコンゴウインコ。虹みたいな色で、すっごくきれいなの。あんなにきれいなのは、やっぱり恐竜の鱗が羽根になったからだと思うんです。
――なんで恐竜になるといいの?
――だって、かっこいいじゃないですか? 地球史上最強ですよ?
ずいぶん前に見たその音楽番組の一場面を、駒子も思い出した。
「天使じゃなくて一人の女って言うてたけど、マリアが何を考えてて、どんな人なんか、ようわからんかったことない? お父さんが死んだエピソード急に出てきて、唐突すぎてどんな病気なん? って感じやったし」
「あれは完全に映画だけの話じゃないかな。エッセイにはなかったような。祖父が亡くなったのはもっと前のことだし、難病ってなんのことだか」
話していると、マリアは母と何の関係もない人だと、駒子はいっそう思った。さっき観た映画は、自分が住んでいたあの商店街や母や父となんのつながりもなく、今まで気にしていたのがばかみたい、とさえ思えてきた。
「天使とか巫女とか言うてたし、話せない人の声が聞こえる、不思議な直感の持ち主って言いたいんやろうけどなあ」
衣里が持って来たレーズンサンドをかじりつつ、千景はどうにも納得がいかない様子だった。
「唐突と言えば、最後の御曹司と結婚も全然伏線なかったよね? 誰、あの人」
「マリアがライブから急いで帰る場面でちらっと映ってた気が……」
「えー、さり気なさすぎて気づかんかったわ」
「確認する?」
とはいえ、その場面を探して合わせるのが面倒なので、再び最初から再生することにした。また商店街と花屋が映り、ケイスケの声でマリアが振り返る。
「あのBMWの人が、こまっくのお父さん設定なん?」
「そうかもしれないけどねえ。あまりにかけ離れてるから、映画終わってから、あれ、もしかしてあの人が父設定? って思ったぐらいで」
ダイスケのエッセイにも花屋の女の子が結婚したと聞いたエピソードはあったように記憶しているが、あんな御曹司として書かれてはいなかったはず。遠い記憶を思い出そうとしていると、駒子はふと、映画の中でマリアが結婚したと伝えた女友達は、ひょっとしてピアノ講師の中島麗子(れいこ)がモデルではないか、と思った。
「真面目そうな金持ちと結婚したから天使じゃなくて女ってこと?」
「まあ、『夢の女』じゃなくなった、って感じじゃない? こんな女の子いたらいいな、って夢の実体化って感じがした、マリアは」
「マリアのほうは、実際とは全然違うとはいえ、こまっくさんのお母さんがモデルではある感じなの?」
「まあ、実家の花屋で仕事してたし、感情の浮き沈みが激しいとこはあるし、共通点がないわけではないけど」
駒子は、自分の記憶の中のいちばん若い母の姿を思い浮かべようとした。しかしその母も、映画の中の「花屋の女の子」よりもずっと年上だったし、母が結婚する前の写真は家にもほとんどなかった。
「突発的な言動に振り回されたってとこは、うちの父親もそうだったとは思うよ。ああいう、何を考えてるのかよくわからない女の子に振り回されるのが好きな男の人って、いるじゃん。いつの世も」
「確かにー」
「あるある。自分だけがわかってあげられる、みたいなやつな」
「傷ついて壊れかけた女の子を救ってあげられる、救いたい。それも映画や小説の定番ストーリーだね」
映画をたくさん観ている衣里は、淡々と他の映画の例をあげた。
駒子は、観たことがあったりなかったりするその具体例にときどき相槌を打ちつつ、ミーコが演じたマリアの泣き顔を何度も思い浮かべた。
母も、よく泣く人だった。
よく泣いて、よく叫んでいた。
耳の奥に残っている叫び声がまだ聞こえてくる気がして、駒子は頭を軽く振った。
「でも、あんな華やかな美人顔ではないよ。普通の人」
「映画は全員美男美女になってまうからな」
「そうそう、モテない地味な女の子って設定なんだけど、眼鏡に髪ひっつめてジャージ着せてるだけで、どう見てもすごいかわいい女の子じゃん、ってなるよね」
「家族も職場の人も全員美男美女やから」
「だよね、画面の中だと目が麻痺しちゃうっていうか。ジョージ役の、あの署長の人もコミカルなおじさんキャラばっかりだけど、やっぱり俳優顔」
「みんな家も広いしさ。新入社員の一人暮らしでも狭小ワンルームじゃないもんね」
「言い出したらきりないし、作り物なんはわかってるけど」
作り物。千景は「つくりもん」と発音するその言葉が、妙に駒子に響いた。
(つづく)

